売れ残りの生贄ですが、竜に溺愛されています
兎深みどり
『ドラゴンの嫁』
二十年も売れ残った私が、竜にだけ需要があるなんて。
世の中、皮肉ですね。
泣く理由はなかった。
だって「売れ残り」は、私の評価じゃない。
婚期を逃した女につけられる、村の都合のいい呼び名だ。
理由なんて誰も覚えていない。
年頃を過ぎた、それだけで十分らしい。
白い布を被せられ、山道を歩く。
生贄の行列は静かだ。
逃げる者はいない。
それが当たり前だから。
不作が続けば娘を一人。
雨が多ければ、また一人。
人ひとりで畑が潤うなら安いものだと、大人達は言う。
今年は、私だった。
二十歳。
嫁ぎ先なし。
皮肉屋で、口が悪くて、おせっかい。
男に媚びない女は可愛げがないらしい。
放っておけない性分は面倒らしい。
大体は十代で嫁ぐので私は売れ残りらしい。
世の中にはロリコンが多くて腹が立つ。
結果、生贄。
話が早くて助かる。
……助かるって、何に?
自分で思って、自分で苦笑した。
洞窟の前で立ち止まる。
祈りの声が背中に落ちてくる。
豊穣を。
平穏を。
来年も生き延びられますように。
欲張りですね。
私は心の中だけで言った。
言葉にしたら、誰かが傷つく。
そういうのは、あまり好きじゃない。
私は自分で布を外した。
洞窟の奥から、熱を含んだ風が流れてくる。
生き物の息遣いみたいに、重たい空気。
「……また生贄か」
低い声。
怒りはない。
混じっているのは、はっきりした呆れ。
「人ひとりの命で豊穣を願うなど、まったく馬鹿げている」
……あら。
想像と違う。
もっと恐ろしくて、理不尽で、問答無用だと思っていたのに。
怒鳴り声ではない。
叱るのでもない。
ただ、ため息みたいに言うだけだ。
「ご安心ください」
私は洞窟の奥を見据えたまま言った。
声が震えないように、いつも通りの調子で。
「二十年も売れ残った女です。期待されても困ります」
空気が揺れ、重たい息が岩の間を伝わる。
見えないのに、そこにいると分かる。
大きくて、長い時間を生きてきた存在の気配。
「……その口の利き方。嫌いではない」
どうやら私は、竜相手でも男受けだけは最悪らしい。
でも、妙に胸が軽くなる。
怖がらなくていい、と言われた気がしたから。
で、食べられなかった。
代わりに言われたのが、これだ。
「雨は雲を読めば足りる」
「……はい?」
「必要なら降らせる。多ければ散らす。それで済む話だ」
「じゃあ、生贄いらないじゃないですか」
「そうだ」
即答だった。
迷いがない。
当たり前みたいに言う。
「村は分かりやすい犠牲を欲しがる。目に見えぬ対価を信じぬ」
竜は淡々と言う。
外へ出て、空を仰ぐ。
風の向き、湿り、雲の厚みを確かめる。
その夜、空は割れ、翌朝には光が差した。
畑はほどよく潤い、村は安堵する。
世界を焼ける存在が、世界を焼かない選択をしている。
それを、誰にも説明しないまま。
説明すれば、きっと余計に恐れられる。
優しさって、意外と報われにくい。
「……で、私は?」
「洞窟に残れ」
「理由は?」
「安全だ」
「……ええと。ざっくりですね」
思わず言うと、竜は少し考えた。
考える、という間があるだけで、少し安心する。
こちらの言葉が届いている証拠だから。
「……煩わしくない」
「それ、理由ですか」
「十分だ」
私は息を吐いた。
生贄として来て、住人になったらしい。
それにしても、竜の判断基準は不思議だ。
怖がらない女は煩わしくない。
口が悪い女は嫌いではない。
竜って、意外と好みがはっきりしている。
買い出しは私の役目になった。
人は竜の山に寄りつかない。
だから市場まで歩く。
値段は交渉で変わる。
待てば下がる。
そういう人間の常識を、竜は知らない。
「三日で白菜は安くなりません」
「三日で足りる」
「足りません」
店先で粘る私を、竜は少し離れた場所から見ていた。
雲じゃなく、私の方を。
監視というより、見守りに近い。
そう思ってしまうのは、私の都合かもしれないけれど。
夕方、荷を抱えて戻ると、洞窟の入口に影があった。
「遅かったな」
「安くなるの待ってたんです」
それだけで、納得する。
会話は短い。
でも、不便はない。
短いからこそ、変に飾らなくて済む。
数日が過ぎた。
私は火を起こし、鍋をかけ、竜は空を整える。
強いのに不器用。
賢いのに生活能力がない。
雲は読めるのに、人間の時間は読めない。
「……あのですね」
「何だ」
「雲は読めるのに、私が迷う可能性は読めないんですか」
竜は黙った。
そして、少しだけ首を傾げた。
「……学習する」
「してください」
笑ってしまったのは、私の負けだ。
だって、その言い方が変に真面目で。
「努力する」とか「気を付ける」じゃなくて、「学習する」。
まるで、人間と一緒に暮らすのが初めての子どもみたいだ。
笑いながら、別の事が気になった。
今までの生贄はどうなったのか。
村の女達は「竜に食われた」と囁く。
子ども達は怖い話にして遊ぶ。
大人達は目を逸らす。
私はそういう噂が嫌いだ。
根拠のないものほど、よく人を縛る。
そして、縛られた人は、誰かを縛り返す。
それが一番、厄介だ。
「今までの生贄は」
火を見つめたまま、私は言った。
「あなたが食べたんですか」
竜はすぐには答えなかった。
鍋の湯気が漂い、洞窟の奥で滴が落ちる音がする。
「食わぬ」
短い否定。
妙に、安心する。
理由は分からないけれど。
「では、どこに」
「名を変え、顔を変え、遠い地へ運んだ」
「……顔を」
「人は噂で殺す。村に戻せば、戻ったという理由で殺される。生きるには、別の名が要る」
淡々とした声なのに、言葉が妙に優しい。
優しいと言ってしまうと、照れる。
私は鼻で笑うふりをした。
「竜の方が、人間よりよほど人間らしいですね」
「……それは、褒めているのか」
「さあ」
言いながら、胸の奥がほどけた。
同時に、余計な感情が生まれる。
安心の次に来るのは、だいたい面倒な気持ちだ。
「じゃあ私は、そのうち遠い地に放り出されるんですか」
「必要なら」
「必要なら、って便利な言葉ですね」
竜は私を見た。
雲ではなく、真正面から。
「……お前は、煩わしい」
「褒め言葉に聞こえません」
「褒めている」
面倒だ。
分かりにくい。
でも、少しだけ笑ってしまう。
こちらの皮肉に、逃げずに返す。
それだけで、なんだか負けた気がする。
◆
洞窟での生活は、思っていたより忙しかった。
まず寒い。
次に暗い。
そして、広い。
「……寝床、ここですか」
「そうだ」
指されたのは、洞窟の奥。
岩肌が平らになっているだけの場所だ。
「毛布は?」
「ない」
「敷物は?」
「ない」
「……あなた、ここで何百年も暮らしてるんですよね」
「必要なかった」
必要なかった、で済むなら苦労しない。
私は荷を下ろし、外套を脱いだ。
持ってきた布を広げ、岩の凹凸を避けて敷く。
鍋と食材を置き、火を起こす場所を決める。
その一部始終を、竜は黙って見ていた。
見張っている、というより、興味深そうに。
「何をしている」
「生活です」
「……それは、何だ」
「台所です」
「洞窟に?」
「洞窟でも」
私が火を起こすと、竜は一歩下がった。
炎が怖いわけではない。
ただ、距離感が分からないらしい。
「近いと熱いです」
「そうか」
一歩下がる。
下がりすぎる。
「離れすぎです」
「調整する」
調整という言葉の使い方が大きい。
でも、言われたことをちゃんとやろうとしているのが分かる。
そういうところが、ずるい。
鍋に水を張り、野菜を切る。
包丁の音が洞窟に反響する。
「音がする」
「します」
「……慣れる」
慣れるまで、黙って見ている。
気配だけで「見られてる」と分かるのに、不快じゃない。
これも不思議だ。
煮立つ匂いが広がると、竜が少し顔を近づけた。
「香りが強い」
「野菜です。生きてますから」
「……なるほど」
納得したのかどうかは分からない。
けれど、鍋から目を離さなくなった。
「量が少ない」
「一食分です」
「足りない」
「人間はそれで足ります」
言い合いながら器を並べる。
竜は不思議そうに器を持ち上げ、重さを確かめる。
「軽い」
「陶器ですから」
「割れるのか」
「落とせば」
その手が止まる。
「……慎重に扱う」
意外と素直だ。
「分かった」とか「理解した」じゃなくて、「慎重に扱う」。
自分なりの言葉で答えるのが、少し可愛い。
いや、可愛いは危険だ。負けだ。
食事を終えると、竜は満足そうでも不満そうでもない顔をした。
「味は?」
「悪くない」
「感想が大雑把ですね」
「次は学習する」
その言葉に、私は思わず笑った。
笑ったところで、また一つ問題が出る。
「皿、洗ってください」
「洗う」
「流すだけじゃなくて」
「……水はどこだ」
「外です」
竜は外へ出た。
しばらくして戻ってくる。
皿は濡れている。
泡はない。
汚れは残っている。
「……竜」
「何だ」
「学習が必要です」
竜は黙って皿を見つめ、次に私を見た。
「教えろ」
「はいはい」
私が水の量、こすり方、すすぎ方を言う。
竜は言われた通りにやる。
やればできる。
出来るのに、知らないだけだ。
「人間は、妙に手がかかるな」
「竜が妙に生活できないだけです」
言い返すと、竜は怒らない。
ただ、「そうか」と言うみたいに少し黙る。
その黙り方が、こちらを受け止めている黙り方だ。
だから、つい言い過ぎても戻れる。
戻れる相手だと、思ってしまう。
夜になると、問題はもう一つ出てきた。
「……あなた、どこで寝るんですか」
「ここだ」
指したのは、私の敷いた布のすぐ隣。
「近いですね」
「守るためだ」
「近すぎです」
「……調整する」
またその言葉。
結局、少し距離を空けて横になる。
洞窟の天井を見上げると、外よりも星が遠く感じた。
「……あの」
「何だ」
「いびき、かきます?」
「分からない」
「分からないって」
「必要なら、起こせ」
「起こせるんですか」
「可能だ」
どの口が言うのか。
でも、言い方がどこか真面目で、笑いが喉に引っかかる。
目を閉じると、洞窟の奥から規則的な呼吸が聞こえた。
静かで、深い。
世界を壊せる生き物の呼吸とは思えないほど穏やかだ。
翌朝、私が目を覚ますと、竜はいなかった。
外に出ると、山の縁で空を見ている。
「今日は降らせる」
「分かりました」
「昼には止める」
「助かります」
会話は短い。
でも、確実に噛み合っている。
短いのに、ちゃんと「一緒に暮らしてる」感じがする。
昼前、私は洗濯をしていた。
布を絞り、岩に干す。
竜が戻ってきて、布を見た。
「それは何だ」
「洗濯物です」
「濡れている」
「乾かします」
「……天候魔法を使うか?」
「やめてください」
即答した。
「晴れは貴重なんです」
「……了解した」
その言葉を選んだことに、少し驚いた。
合わせてくれている。
「分かった」じゃなくて、「了解」。
私の言い方に寄せてきた気がして、胸がくすぐったい。
夕方、買い出しに行く準備をすると、竜が山道の方を見た。
「戻る時間は」
「日が沈む前です」
「……分かった」
その「分かった」は、いつもより重かった。
私は歩きながら考えた。
竜は強い。
賢い。
けれど、人間と暮らす経験がない。
だから心配の仕方が、下手なのだ。
洞窟に戻ると、入口に影があった。
「遅かったな」
「前にも言いましたが、安くなるの待ってたんですよ」
それだけで、彼は何も言わなくなる。
その背中を見て、私は思った。
——ああ。
この竜、思っている以上に面倒だ。
そして同時に、思っている以上に、放っておけない。
◆
買い出しの日は、だいたい決まっている。
決まっているはずだった。
市場は賑やかで、値段は気まぐれだ。
朝は高く、昼に下がり、夕方にまた上がる。
私は籠を抱え、店先を回った。
豆は安い。
塩は質が悪い。
干し肉は高すぎる。
「……交渉」
独り言が増えるのは、集中している証拠だ。
結局、少し待った。
少し、が人間の少しで、竜の少しではないことを、私はうっかり忘れていた。
山道を戻る頃には、空が赤く染まり始めていた。
洞窟の入口に影がある。
いつもの影だ。
「……遅かったな」
「交渉が長引きました」
「交渉」
「値段の話です」
彼は籠を見る。
中身を確認し、頷く。
「安いのか?」
「ですよ!」
それで終わるはずだった。
けれど、その日は違った。
彼は入口から動かない。
空ではなく、私を見る。
「次は、知らせろ」
「何をです?」
「遅れる」
「……どうやって?」
「考える」
考える、という言葉が、今日はやけに重かった。
責めているのではない。
困っているのだ。
困っていることを、ちゃんと口にしている。
その夜、私は火のそばで腕を組んだ。
知らせろ、と言われても、人間の知らせ方しか知らない。
「伝書鳩でも飛ばしますか」
「鳩とは何だ」
「空を飛ぶ鳥です」
「鳥は食える」
「食べる話じゃありません」
竜は真面目に頷いた。
真面目に間違えるのが、この竜の才能だと思う。
でも、笑っていいのは、こちらが安心している証拠でもある。
「鐘は?」
「鐘とは」
「鳴らすと音が遠くまで届きます」
「音なら、我が出せる」
「大声で呼ぶのは違います」
「……違うのか」
私はため息をついて、指を立てた。
「あなたが困るのは、私が見えない時でしょう。なら、見えるようにすればいい」
「……見えるように」
「気配でも、温度でも。何かしら」
竜は黙って考えた。
洞窟の天井を見上げ、次に私の手を見る。
「……お前は、触れる」
「はい」
「我も、触れられる」
言い方が変だ。
でも、真剣だ。
「つまり?」
「印を作る」
そうして翌朝、私はあの黒い石を渡されたのだった。
翌日、私は洞窟の入口で小さな石を見つけた。
掌に乗る黒い石。
表面に細い溝が刻まれている。
「これ、何です」
「印だ」
「……印?」
「お前が触れれば、我に分かる」
便利だ。
便利だけれど、胸の奥が妙にくすぐったい。
「分かる」と言われるだけで、こんなに落ち着くなんて。
「最初から言いなさいよ」
「今、言った」
「そういう意味じゃありません」
竜は少し首を傾げた。
学習、という言葉を思い出したのかもしれない。
「……次は、先に言う」
「お願いします」
石を握ると、ほんのり温かかった。
私の体温じゃない。
竜の気配に近い温度だ。
その石を握っていると、竜が妙に静かになる時がある。
私の体温と、竜の気配が混じるからだろうか。
それを可愛いと思ってしまったら負けだと、自分に言い聞かせる。
ある昼、空が不自然に暗くなった。
山の向こうに、黒い雲が盛り上がっている。
積み上がる雲は、畑にとっては恵みでも、続けば災いだ。
村の方角から、遠い鐘の音が聞こえた。
騒ぎだ。
誰かが畑を守ろうとしている。
「……行きます」
私が言うと、竜は首を傾げた。
「村へ?」
「あなたが散らしたら早いでしょうが……放っておけないんです」
「……お前は、面倒だ」
「褒めてます?」
「褒めている」
竜は外へ出た。
山の上に立つ。
私はその隣に立った。
風が強い。
雲の下の冷たい匂いがする。
竜が息を吸い、吐く。
熱い息ではない。
空気そのものを押し分けるような吐息。
黒い雲の端が揺れ、裂け、形を崩していく。
「……すごい」
「当然だ」
「当然って便利な言葉ですね」
「学習した」
私は笑った。
その笑いを、竜は横目で見ていた。
雲ではなく、私の方を。
目が合うと、なぜか私の方が先に逸らしてしまう。
数日後、私はまた市場へ行った。
今度は順調だった。
早めに切り上げ、戻る。
途中で雨に降られた。
小雨だ。
問題ない。
――問題ない、はずだった。
山道で、子どもが泣いていた。
村の外れの子だろう。
足に枝が刺さっている。
大した傷ではない。
けれど放っておけない。
「動かないで」
枝を抜き、布で縛る。
子どもは涙を拭き、何度も頭を下げた。
「お姉ちゃん、どこ行くの」
「帰るの」
「どこに」
答えたら、噂になる。
噂は人を殺す。
竜の言葉が脳裏をよぎる。
「遠い家よ」
私はそう言って、歩き出した。
洞窟が見えた頃、雨が止む。
空が割れるように晴れる。
雲が散った跡が残っている。
入口に、影がない。
奥へ入ると、彼がいた。
洞窟のさらに奥、普段は近づかない場所だ。
岩肌に爪痕がある。
新しい。
深い。
怒りではない。
焦りの跡に見えた。
「……どうしました」
「距離を測っている」
「何のです?」
「時間だ」
私は籠を下ろした。
「あなた、最近変です」
「そうか」
「そうです」
彼は答えない。
代わりに、洞窟の壁を見る。
遠くを見る癖が出ている。
「……お前は、人だ」
「はい」
「老いる」
「ええ」
「終わる」
言葉が、短く切れる。
切れ方が、痛い。
「……それで?」
「……それだけだ」
それだけ、で済ませるつもりらしい。
私は息を吐いた。
強く言うと、彼はもっと黙る。
だから、少しだけ柔らかく。
「距離を取るの、下手ですね」
「最適だ」
「最適じゃありません」
私は一歩近づいた。
「心配なら、そう言えばいいでしょう」
「……心配ではない」
「嘘」
即答した。
でも、声音は責めるより、困っている方に近い。
「雲を読むのは得意でも、自分の気持ちは読めないんですね」
彼は何も言わない。
否定もしない。
その夜、彼は私の敷いた布から少し離れて横になった。
調整、らしい。
気を遣っているつもりなのだろう。
それが一番、私にはきつい。
私は天井を見上げて考えた。
この竜、私がいなくなる前提で、優しくなろうとしている。
それが、一番困る。
翌日、私はあえて遅れた。
わざとだ。
市場で一息つき、茶を飲み、話を聞く。
戻る頃には、日が傾いている。
山道の途中で、風が変わった。
空気が熱を帯び、背中に圧がかかる。
嫌な予感がして、私は印の石を握りしめた。
次の瞬間、雲が裂けた。
山の上から熱い息が走り、積み上がりかけた雲が散っていく。
それは天候の調整というより、道を開く手つきだった。
洞窟の入口に影がある。
いつもより、近い。
「……遅かったな」
「はい」
「理由は」
「試してました」
「……何を」
「あなたの顔」
沈黙。
でも、逃げ場はない。
「心配してましたよね」
「……安全だ」
「安全でも、心配はするでしょう」
彼は言葉を探す。
珍しい。
探している、という行為そのものが、すでに答えだ。
「……失う可能性を、排除したい」
「私を、遠くへ送る?」
「……」
答えない。
でも、否定しない。
「嫌です」
私ははっきり言った。
声が震えないように、息を整えて。
「ここがいい。あなたがいる所が」
竜は長く息を吐いた。
洞窟の空気が、少し温かくなる。
「……理解した上で、選べ」
その言葉で、私は分かった。
これは拒否ではない。
譲歩だ。
彼の方も、逃げたくないのだ。
数日後、私は熱を出した。
たいした事はない。
雨に濡れた日の夜、体が冷えただけだ。
だけど、竜は違う。
外の風が止み、雲が一つもなくなる。
晴れが続きすぎる。
空が硬い。
畑が心配だ。
村が騒ぐ。
そう思って起き上がろうとすると、竜の声が落ちる。
「動くな」
「動けます」
「動くな」
「命令する相手、間違ってませんか」
「……お前は、軽い」
「体重の話はしてません」
竜は黙って額に手を当てた。
熱を測っているらしい。
便利すぎる。
そして、温かい。
「雨、降らせないようにしてますよね?」
「降らせぬ」
「雲を散らしすぎです、何故です?」
「……お前が濡れた」
「はい?」
「濡れた。冷えた。倒れた」
倒れてません、と言い返しかけて、やめた。
竜の目が真剣すぎる。
真剣で、怖い。
怖いのに、嬉しい。
そういうのはずるい。
「……人は、こうして終わるのか」
低い声。
呟きに近い。
私は息を吐いた。
ここで強がると、彼はもっと怖がる。
だから、いつもより少しだけ素直に。
「終わりません。今回は」
「今回は、だ」
その言い方が、ずるい。
責めているわけじゃない。
ただ、覚悟を求めている。
「だから契約だ」
竜は言った。
竜と魂を分かつ契約。
老いは止まるが、人ではなくなる。
「永遠はいりません」
私はすぐに言った。
「同じ所で、同じ終わりなら」
言ってしまってから、自分でも少し可笑しかった。
私は永遠が欲しいわけじゃない。
若返りたいわけでもない。
欲しいのは、ただ一つだ。
隣に立つ権利。
守られるだけの花嫁ではなく、面倒を言い合って、それでも同じ鍋を囲める相手。
竜は黙って、洞窟のさらに奥へ向かった。
私が初日に見て、近づかない方がいいと判断した場所だ。
壁に古い刻みがある。
言葉にならない線。
けれど、竜の指がなぞると、線が淡く光った。
「怖いですか」
そう聞くと、竜は振り返らずに答えた。
「怖いのは、ここではない」
「なら何です」
「お前の終わりだ」
言葉が真っすぐすぎて、胸が詰まる。
私は皮肉を探した。
いつもなら、すぐに見つかるのに。
「……契約って、痛いですか」
「痛くしない」
「優しい」
「当然だ」
竜は一度だけこちらを見た。
金色の目は、いつもより暗い。
雲を読む目ではない。
私を読む目だ。
竜が掌を差し出す。
私は躊躇なく握った。
熱い。
竜の体温は、いつも世界の中心みたいに熱い。
「名を」
「名前が必要なんですか?」
「……言わぬのか」
「アリア」
竜は小さく頷いた。
「アリア、可愛くて、よい名前だ」
「可愛いすぎるんですよね、私には不釣り合いです」
「嫌なのか」
「……あなたに呼ばれるのは、嫌じゃないです」
私が言うと、竜はほんの少しだけ息を吐いた。
それが笑いに見えたのは、私の都合かもしれない。
でも、都合のいい勘違いって、時々人を救う。
「では、我の伴侶アリア……我が名はアルタイル……ここに永遠の契りを結ぶ……——」
そう言って、竜は指先で私の額に触れた。
触れられた場所が、熱を帯びる。
焼ける痛みではない。
温かい印。
胸の内側に、同じ温度が灯る。
「これで、お前は消えぬ」
「……言い方、やっぱり大きいですね」
「……学習する」
私は笑った。
笑える。
だから大丈夫だ。
竜は何も言わなかった。
代わりに、洞窟の奥へ歩く。
しばらくして戻ってくる。
掌に、あの印の石より大きなものを持っていた。
白い鱗だ。
滑らかで、温かい。
「……持て」
「これ、あなたの」
「我の一部だ。お前が消えぬように」
私は受け取って、指でなぞった。
胸の奥が、妙に痛い。
嬉しい痛みだと、認めてしまうのが悔しい。
「重い愛ですね」
「重いのか」
「軽い方がいいって言ったら、あなたは軽くするんですか」
「……学習する」
言い方が真面目すぎて、笑うしかない。
彼は、私の冗談を冗談として受け止めようとしている。
そこが、優しい。
夜、外の風が止む。
空が静まる。
「……必要なら」
背中越しに、声が落ちてくる。
「我は、人の姿も取れる」
私は目を閉じて、開いた。
驚きの前に、呆れが来る自分がちょっと嫌だ。
「最初に言いなさいよ」
振り返ると、彼がいた。
竜ではない。
人の形だ。
髪はあの鱗のように綺麗な白、目は金色で、体温は熱い。
同じ生き物なのに、距離が急に近い。
そして――思ったより、不器用そうだ。
「……近いですね」
「守るためだ」
「近すぎです」
「……調整する」
私は笑って、腕を伸ばした。
抱きしめる。
胸に額が当たる。
呼吸が重なる。
「我は、分からぬ」
「何が」
「どうすれば、失わずに済むのか」
私は息を吐き、彼の背に指を回した。
責めるのではなく、ちゃんと伝えるために。
「失わない方法なんてないですよ」
「……なら」
「だから、横にいます」
私の言葉に、彼の腕が強くなる。
痛くはない。
逃げられないだけだ。
逃げなくていい場所がある、ということだ。
翌朝、私はいつも通り鍋をかけた。
竜――今は人の姿の彼が、妙に落ち着かない。
「何です」
「……手が、余る」
「洗い物してください」
「学習した」
「では、実践」
竜は皿を持ち、外へ出ようとする。
「待って。泡を忘れてます」
「泡」
「そう、泡」
竜は眉を寄せた。
雲は読めるのに、泡は読めない。
でも、その顔がどこか真面目で、可笑しい。
「……難しいな」
「はいはい、教えます」
私は笑いながら、ふと思った。
村がどう言おうと、噂がどう流れようと、今はどうでもいい。
この面倒で不器用で、世界を焼けるのに皿を洗えない竜が。
私を生贄ではなく、伴侶として扱うのなら。
◆
それから、村に生贄が立つことはなくなった。
雨は必要な時に降り、続きすぎる雲は崩れ、畑はほどよく潤う。
それでも村の大人達は、山へ供え物を運び続けた。
祈る癖は、なかなか抜けないらしい。
私は市場へ行くたび、その様子を遠くから眺めた。
白い布も、列も、もうない。
「見に行きたいのか」
「別に」
嘘だ。
「……連れて行く」
人の姿の竜が、外套を羽織った。
似合っていない。
似合っていないのに、堂々としている。
その「堂々」は、きっと私のためだ。
隠れることを、彼なりに選んでくれている。
「あなた、目立ちます」
「調整する」
「その言葉、本当に便利ですね」
村の手前で、竜は帽子を深く被った。
金色の目だけは隠せない。
私は笑いそうになるのを堪えた。
「笑うな」
「笑ってません」
「……嘘」
私達は村の外れまで歩き、畑の匂いを嗅いだ。
懐かしいのに、もう戻る場所ではない。
その事実が、少しだけ寂しくて、ひどく安心だった。
「怖いですか」
私が聞くと、竜は首を振った。
「怖いのは、失う事だけだ」
「じゃあ、失わないように学習してください」
「学習する」
私は彼の腕を掴んだ。
横に立つ。
三歩後ろではない。
その距離が、私には一番しっくりくる。
守られるためじゃない。
一緒に歩くための距離だ。
私は、生贄として始まり、伴侶として、彼の終わりまで生きる。
それにしても。
二十年も売れ残った私が、竜にだけ需要があるなんて。
……世の中、皮肉ですね。
売れ残りの生贄ですが、竜に溺愛されています 兎深みどり @Izayoi_016Night
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