第四章 穏やかな日々に訪れた音

 幾日か穏やかな時間が流れた、ある日のこと。

 白銀しろがねに、何かできる家事はないかと聞かれた。


 何を教えたものか少し悩んだが、ここ榊原さかきばら堂に来て、

 自分が一番最初に教わった――紅茶の入れ方を教えることにした。


 初めてここに来た頃の自分を重ねつつ、

 台所で一緒に準備をすることになる。

 慧真けいまから教わったあの頃とはだいぶ違い、

 幾分か気持ちに余裕が出てきているように感じた。


 茶葉の分量。

 お湯と茶器の温度。

 蒸らしの時間。


 一つ一つ説明していると、白銀しろがねは真剣な顔で何度も頷く。


「紅茶は、思っていたより繊細なのですね」


「適当でも飲めるけど、

 ちゃんと入れるとその分しっかり味が変わるから。

 毎日練習だね」


 そんな会話をしていた、そのときだった。


 ――バンッ。


 勢いよく扉が開いた。


 何事かと玄関まで急ぎ、扉の前に立っていたのは、

 かつて学舎で見た秋月だった。


「やあやあ、こんにちは!

 春杜はると君、元気にしていたかい?

 おやおや、可愛らしいお嬢さんまでいるとは」


 突然の大声に、白銀しろがねはびくりと肩を跳ねさせ、

 借りてきた猫のように固まってしまった。


「……秋月さん」


 思わず眉間を押さえる。


「来るなら、もう少し普通に登場してください。

 白銀しろがねも、びっくりしています」


「これはこれは、申し訳ないことをしたね」


 秋月は大げさに肩をすくめると、

 百貨店の手提袋に入った小さな箱を取り出した。


白銀しろがね君といったか。

 お詫びにこれでも受け取ってくれたまえ。チョコレイトだ」


 ずかずかと上がり込み、白銀しろがねの前に立つ。


「お嬢さん、お手を拝借」


 正直に両手を差し出した白銀しろがねの手のひらに、

 ちょん、と箱を乗せる。


 白銀しろがねは一瞬きょとんとしたあと、

 先ほどまでの緊張が嘘だったかのように、ぱっと笑顔になった。


「まあ……!

 チョコは大好きですの。

 みんなで食べたいですの、準備してまいりますわ」


 そう言って、軽い足取りで奥へと行ってしまった。


 ――完全に懐柔された。


 入れ代わりに、奥から慧真けいまが姿を現す。


「おや。

 お客様……では、なさそうですね」


 穏やかな笑みを浮かべながら、問いかける。


「どのようなご用件で、いらっしゃいましたか?」


 秋月は帽子を取り、丁寧に一礼した。


秋月修一あきづきしゅういちと申します。

 オレは春杜はると君の絵に惚れ込んだ者でして」


 そこで一拍置き、


「彼の絵を受け取ったので、

 お礼と感想を伝えたく、参った次第です」


 嫌な予感がして、思わず口を挟んだ。


「……ちょっと待ってください。

 俺の絵が、なんですって?」


 秋月を見る。


「秋月さん、俺の絵をどこで手に入れたんです?」


 秋月は、ぱあっと無邪気な笑顔を浮かべた。


「ああ、あの絵は素晴らしかったよ。

 君の学校の担任に頼んで、貸出の許可をもらっていたんだ」


 そして、身振り手振りを交えて続けようとする。


「あの絵の素晴らしいところは、まず――」


「やめてください!」


 思わず声を荒げてしまった。


「……あなただったんですか。

 俺の絵を求めていた生徒って」


 ため息が漏れる。


「帝展で特選を取ったと聞きましたが、

 酔狂も大概にしてください」


 あの授賞式を思い出すと、どうしても冷静にはなれなかった。


 慧真けいまは紅茶の支度を引き継ぎ、穏やかに言った。


「謙遜が過ぎるのは、あまり良くありませんよ」


 こちらを見て、はっきりと言う。


春杜はるとさん。

 あの帝展は、私の中ではあなたの絵がとても輝いていました」


 秋月も、すかさず頷く。


「正直、オレも同意見だ。

 春杜はると君の作品が一番だと思ったよ」


 少し真剣な声になる。


「人の創作意欲を、あそこまで掻き立てる作品は、

 そうそう見られるものじゃない」


 気がつけば、慧真けいまと秋月は、

 がしっと固い握手を交わしていた。


 ――春杜はるとを置き去りにして。


 二人はそのまま、春杜はるとの絵の話で盛り上がり始める。


 やがて白銀しろがねが戻り、

 いつの間にか彼女も話に加わり、

 気づけばそのまま夜まで語り続けていた。


 夕食は、成り行きで春杜はるとが作ることになった。

 当然のように、秋月も食卓に並んだ。


 そして秋月の胃袋を掴むという、

 あまり名誉とは言えない結果に繋がった。


 それからというもの――。


 秋月は、ちょくちょく榊原さかきばら堂に顔を出すようになった。


「新作はまだかい?」

「この絵、意見を聞かせてくれないか?」


 そんなことを言っては、居座る。


 榊原さかきばら堂に来てから、

 春杜はるとの苦労は、どう考えても常識を越え始めている。


 そう思わずには、いられなかった。

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