第4話 砂糖研究会と携行ケーキ

――焼結炉の甘い異端、王女印の重み、そして前線へ――


王立大学校の研究棟は、火と薬品と金属の匂いで満ちている。

だからこそ、その日の匂いは異物だった。


――砂糖。

――焼けた小麦。

――溶けた乳脂肪。


甘い香りは、研究棟では暴力に近い。理性の扉の隙間から、問答無用で中へ入ってくる。


1 焼結炉と、令嬢たちの吸引現象


 実験棟の奥、焼結炉の前で、エミリア・グレンウッドは腕まくりをしていた。炉の中に入っているのは陶材でも金属でもない。小さな型に流し込まれた生地――焼き菓子だ。


「……お嬢様。本当に、ここで焼くのですか……」


 侍女が声をひそめた。実験棟でお菓子を焼くという事実が、すでに常識を壊している。


「繊維の焼結が終わっても、まだ温度が安定してるの。あと、炉が熱いまま、残り火と炭を捨てるのは……もったいないでしょう」


 エミリアは当然のように言い、覗き窓を見た。焼結炉は無骨で、正確で、嘘をつかない。思った温度を作れる。再現性が取れる。研究に必要なものが揃っている。だから――焼く。ただ、焼くものが普通ではないだけ。


 扉を開けると、熱気がふわりと広がった。その瞬間、廊下の向こうから足音が止まり、次に「迷いながら近づく」気配が増える。


「……今の匂い、どこ?」

「研究棟よね? え、研究棟で甘い匂い……?」


 角を曲がって現れたのは、王立大学校の学生の令嬢たちだった。普段なら決して実験棟に近寄らない種類の人間が、目だけは真剣に、匂いに引かれて集まってくる。


 その輪の端で、エミリアの侍女がすっと半歩下がった。柱の影に溶けるように、姿を消す。最初からそこにいなかったように――“令嬢の会”に不要な存在として、完璧に消える。


「……失礼。ここで、いま何を……?」


 令嬢の一人が言った。声はきれいだが、視線は炉から外れない。


「焼成試験です」


 エミリアは涼しい顔で答えた。嘘ではない。ただし焼成しているのは、陶材や焼成材ではなく生地だ。


「温度の上げ方で膨らみ方と香りが変わるの。比較するために条件を変えて実験しています」


 令嬢たちは理解したような、していないような顔で固まった。しかし胃だけは理解している。匂いが命令を下している。焼き上がった菓子は実験棟の金属台に並べられた。金属と甘味。場違いが、妙に似合ってしまう。


「……試食、は……」


 令嬢の一人が言いかけて、自分で赤くなった。だがエミリアは淡々と言った。


「もちろん味の評価も、重要なデータよ」


 その瞬間、令嬢たちの表情が救われた。これは研究。研究なら、堂々と食べられる。


 ひと口。次のひと口。


 静かな戦慄が走った。表面は薄い糖の膜がぱり、と割れ、中はほろりとほどける。甘いが重すぎない。香りが立つ。――生地が“きちんと焼けている”。


 問いが出たそのとき、実験棟の空気が一段、引き締まった。護衛の歩幅。迷いのない足音。


「ここ、だったのね」


 現れたのはセリーヌ王女だった。なぜか当然のように、甘い匂いの中心に、するりと収まっている。

 王女は礼を求めるでもなく炉を覗き込み、焼き菓子をひと口食べて、考える顔になる。


「……温度の上げ方、工夫したわね?」


「はい。最初は低めで中を固めて、最後に表面だけ」


「うん。良いわね」


 令嬢たちが息を止める中で、セリーヌ王女はさらりと言った。


「この集まり、続けましょう。名前をつけるの。――砂糖研究会」


 誰かが笑いかけて、しかし真顔で頷いた。名前がついた瞬間、ただの集まりは制度になる。人は“会”と呼んだものを継続してしまうからだ。


「わたくし、顧問になるわ」


「顧問……!」


 セリーヌはにこりと笑って胸を張った。


「顧問の役目は簡単よ。食べて、評価して、次の課題を出すの」


 王女が一番えらい場所でふざけると、周囲の緊張感も薄れる。こうして砂糖研究会は、研究会になった。


2 携行ケーキ:冗談が議題になった日


 その日の試食会は、なぜか三回に増えた。炉が熱い。材料がある。好奇心が止まらない。


 そして四回目の焼き上がりの頃、今度は別の匂いが混じった。鉄と革、乾いた汗――軍の匂い。


「……なにここ。研究棟が甘い匂いで満たされてる」


 現れたのはクラリス少尉だった。訓練帰りの軍服のまま、当然のようにひと口食べ、当然のように目を丸くする。


「うま……。これ、外に持っていったりできるかしら」


「サイズはそのつもり。外のお茶会くらいならこのままでも大丈夫。何日も放置するような使い方だと難しいね」


 クラリスは肩をすくめ、冗談めかして言った。


「保存が効いて、戦場でも食べられるケーキがあったら最高なのに」


「ぴしっ!!」


 冗談のはずだった。だが砂糖研究会の面々は、冗談を冗談のまま流せない。


 既存の保存法が次々と挙がる。


「乾燥――ビスケット」

「塩漬け、燻製、油漬け」

「果物の砂糖漬け……」


 しかし同じ壁にぶつかる。


「……ケーキには程遠いわね」

「しっとり、ふんわり、滑らか――その触感がほしい」


 化学講座のミレイユ・ヴァーレンが、焼き菓子の欠片を指で崩しながら言った。


「“しっとり”を作るのは水分よ。でも水分があると腐る。そして、よく焼けたケーキやパンは、水分が多いと、時間で味が落ちる。数日でぱさついて、別物になるわ」


 料理好きで有名なフローレ・マルシェが、さらりと続ける。


「だったら逆。いったん固く焼く。水分を抜く。殺菌もできる。――ここまではビスケットと同じ」


「でもビスケットではケーキの食感にならないわ」


 フローレは頷いた。


「だから、よく焼いた“おいしい”まま粉にする。それを、油で練るの。生クリームみたいに。口の中でとろけるように」


 ミレイユが小さく指を立てた。


「粉の粒が油に包まれれば、空気中の湿気を吸いにくい。澱粉が老化するのは水が動くから。油が膜になれば、水が入りにくい。老化が遅くなるはずよ」


 工房棟に顔が利くエルザ・リンドベルクが、最後の一手を打つ。


「包装は蝋紙。端を溶かして密閉できるわ。中は油の膜、外は蝋の膜。二重バリアになる」


 セリーヌ王女が結論を引き継いだ。


「口の中でケーキになれば、ケーキよ」


 そして宣言する。


「砂糖研究会、第一正式議題。――携行ケーキの開発」


 クラリスは笑いながら、ちょっとだけ引いた。


「冗談だったのに、全員の目が本気……」


 エミリアは炉の扉に手を置き、頷いた。


「本気だよ。条件を決めよう。保存、耐湿、運搬。――片手で食べられて、手が汚れてても大丈夫な形」


3 王女印:甘味が“国家の規格”になる


 携行ケーキが役に立ったという報告は、予想より早く王都へ届いた。

 派手な戦果より、食べ物の報告のほうが早い。命がけの戦果などめったに起こるものではないが、食べ物なら毎日喫食するからだろう。


 セリーヌ王女はその報告を読み、紙を置くと、指先で机を軽く叩いた。


「これは……ただの食糧としては扱えないわね」


 老執事が静かに頷く。


「重要な装備物資、でございますね。殿下」


「そう。兵が常に装備できるようにしたいわ」


 翌日、王女は王都のパン職人組合、菓子職人組合、調達局、軍需局を一室に集めた。粉の匂いのする男たちと、紙の匂いのする官僚たちが、同じ机を囲む。異様な光景だ。


 机の上に、蝋紙に包まれた一本が置かれる。

 小さな印――王女印。


「携行ケーキを、軍の正式な補給品として採用します。王都のパン屋と菓子屋を総動員します」


 職人たちの背筋が伸びた。

 冗談ではない。国家が動く。


 セリーヌは、蝋紙の印を指で押さえ、微笑んだ。

 砂糖より鋭い微笑みで。


「ただし」


 室内が静まり返る。


「出来の悪いもの。手抜きのもの。形だけ真似たもの。それを王女印で前線へ送ったなら――」


 王女は一拍置いて、全員を見回した。


「王女印にかけて、許しませんわよ」


 官僚も職人も、同じ速度で姿勢を正した。その場で“規格”が生まれる。


 寸法、重量、封緘、崩れ試験、吸湿試験。合格品だけが、王女印を押される。印は飾りではなく、責任の証明になった。


 王都の甘味産業は、その日から兵站の一つになった。


4 前線で起きた、静かな回収


 それが役に立ったのは、戦場の派手な瞬間ではなかった。

 爆発でも勝鬨でもない。


 “動けない”という、静かな危機の中だった。


 クラリスは斥候任務に出ていた。敵陣地の近く。草と土と影だけが味方の場所。二人で潜入し、隠れ、丸一日、ほとんど動かず監視する。


 時間が過ぎるほど、寒さが骨に入り、集中力が削れる。そして最も厄介なのは、空腹だ。空腹は音を立てないのに、判断を鈍らせ、身体を止める。干し肉とビスケットは常に携行しているが、慎重に喫食しないと音が出る。


 隣の相棒の呼吸が浅くなった。肩が小刻みに震え、指先が地面を掴めなくなっている。クラリスは横顔を見て、すぐに理解した。


(糖が尽きた)


 新人は緊張で食が進まないことがあり、水だけで動いてしまうことがある。気づいたときには、頭が霞み、手足が言うことをきかなくなる。


 撤退は侵入より慎重な動きが要求される。ここで動けば見つかる。だからクラリスは、胸ポケットに指を滑らせた。


 薄い蝋紙に包まれた棒が数本。王女印の携行ケーキ。


 一本だけを抜き取り、音を立てないように蝋紙の封を裂く。ほのかな甘い香りが漏れた。


 相棒の手のひらに、そっと押し込む。


「……食べて」


 相棒は首を振りかけたが、震える指が“食べ物”だと理解して握り直した。口へ運び、しっとり生地を噛む。小さな音。ぎりぎり聞こえない程度。


 クラリスは視線を敵陣地から外さず、唇だけで言った。


「口の中で戻る。……信じろ」


 十五分。

 二十分。


 震えが少しずつ弱くなる。呼吸が深くなる。


 三十分。


 相棒の頬に血の色が戻った。目の焦点が戻り、指先が地面を掴めるようになる。声は出さないが、表情が“生きている”顔に変わる。


 クラリスは小さく言った。


「……戻った?」


 相棒が必死に頷いた。


 蝋紙の残りを握りしめたまま、相棒が唇だけを動かす。


「……これ、なんです……?」


 クラリスは、ほんの少しだけ笑った。笑っていい瞬間は、斥候には貴重だ。


「王女印の携行ケーキ。……甘味は武器になるんだってさ」


 相棒の目がわずかに潤んだが、泣かなかった。泣けば声が出る。斥候は泣けない。


 二人は、また動かずに監視を続けた。敵陣地の灯は相変わらず遠い。


 だがクラリスの胸ポケットには、甘い武器がまだ残っている。その武器は、誰かの命を静かに繋いだ。


 焼結炉の残り火で始まった甘味は、冷えた土の上で、確かに“効いた”。

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魔力の小さな大魔導師 axxx01 @axxxsx01

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