第3話 王女様が行く

ここはアヴァロン王国の王宮、王宮の応接間は、いつも香りが同じだった。

 淡い花、甘い茶葉、磨かれた床の蝋――そして、言葉の重なり。どのお茶会でも同じような話題が延々と繰り返されている。



「北部の伯爵家の三男が――」

「今年の絹は高いですわね――」

「王家に近い家というのは――」


 セリーヌ王女は、完璧な笑みを崩さない。崩してはならない。王女の表情は国の表情だ。

 ただ、こめかみの奥が、ほんの一瞬だけ、ぴくりと引きつる。


(これは仕事。仕事よ。お茶会という名の業務……)


 隣に控えるリュシア公女が、視線だけで小さく問いかけてくる。

 ――大丈夫ですか。

 セリーヌは、扇の陰でほんのわずかに口角を上げた。


 リュシアは公国から来た“人質”という建前の公女だった。けれど、王宮の誰もが知っている。彼女はもう、客ではない。

 女の子同士だから、というより――セリーヌが最初から距離の取り方を断言した。


「この子は客じゃないわ。うちの子よ」


 宣言だった。

 誰にも逆らわせない種類の。


 それからのリュシアは早かった。王宮の空気に、するりと適応した。

 セリーヌが積極的に周りを動かそうとするのに対して、リュシアは“動いたものが壊れないように馴染ませる”側だった。


 セリーヌが前に出る。

 リュシアが背中を守る。


 宮廷の者は囁く。

 「第二セリーヌ王女だ」

 「セリーヌ殿下が二人いるようなものだ」と。


 だが実際は違う。

 二人は同じ王女ではない。

 片方は変えるために立ち上がり、もう片方は変えたものを摩擦なく通す――二人で一つの機構だった。


 救いが一つだけあった。

 今日の午後、王女は王立大学校へ行く予定になっている。形式上は「視察」。実際は息抜きだ。


 王宮の門を出ると、空気が少しだけ軽くなる。護衛の騎士が馬車の扉を開け、セリーヌとリュシアが乗り込む。

 車輪が石畳を転がり始めた瞬間、セリーヌの肩から、王族という重りがほんのわずか外れる。


「殿下、本当に……行かれるのですね」

「行くわ。反対されにくいように“視察”にしてあるだけ」


 リュシアは小さく息を吐いた。笑っているようで、少し緊張している。王女が“現場”へ近づくときの空気を、彼女もよく知っているのだ。


 セリーヌは扇を閉じ、窓の外を見た。

 王都の景色が流れていくと、自然に記憶がほどける。


◇◇


 セリーヌが小さい頃、王宮の図書館は隠れ家だった。


 王子たちが庭や訓練場にいる間も、セリーヌだけは本棚の迷路に消えた。背の届かない棚の下段に座り込み、紙の匂いに埋もれて息をする。


 他の王子たちは、最初は図書館に興味がなかった。

 だが、セリーヌが行方不明になるたび、探すために何度も図書館へ来るようになった。


「またここか。出てこい」

「今ちょうど大河の水位と作物のところなの。邪魔しないで」


 呆れながらも、王子たちは棚の間に腰を落とした。

 読書家になったわけではない。けれど、図書館そのものには拒否反応もない――それだけで、人は救われる。本が嫌いではない、それだけで、知的レベルは静かに底上げされる。


 十二歳になった頃、セリーヌは父王に進言した。


「王族は、積極的に軍などに研修に行かせるべきです。式典だけでは国が見えません」


 第一王子も、セリーヌ自身も、前線視察をやる気満々だった。

 だが返ってきた答えは冷たかった。


「女性王族は戦線で受け入れられない。危険だ」


 セリーヌは引かなかった。

 引けなかった。国を守る言葉が、お茶会の言葉だけで出来ているなら――国は弱る。


「では、野戦治療院と野戦調理所へ。そこなら“現場”です」


 許可は出た。形式上は視察。実態は研修。

 それが、セリーヌの最初の“現場”だった。


 野戦治療院は、布と木と泥で出来ていた。天幕の中に入った瞬間、血の匂いが喉の奥に貼りつく。薬草、汗、鉄、そして恐怖。

 セリーヌはドレスを脱ぎ、地味な作業服を着て髪をまとめ、袖を縛った。王女の飾りは一つもない。あっていい場所ではない。


 ちょうどそのとき、外が騒がしくなった。

 担架が次々に運び込まれ、叫び声が天幕の天井を叩く。視察どころではない。激戦だった。


「治癒師、足りない!」

「包帯を回せ!」

「次、こっちだ!」



 セリーヌは一瞬、足が止まりそうになった。

 本には血の記述はある。だが本の血は匂いがしない。温度も重さも、脈もない。

 おつきの侍女や護衛も手助けに入っていく。セリーヌは治療所で邪魔にならないように脇に寄った。


 ――目を逸らすな。

 自分で言い聞かせた、その瞬間。


 忙しさに目の焦点が合っていない治癒師が、セリーヌに怒鳴った。


「そこの手が空いてる君! この患者の足を動かないように抱えていてくれ!」


 “君”。

 王女と気づいていない。作業服の娘にしか見えていない。


 セリーヌは返事をしなかった。出来なかった。

 返事をするより先に、体が動いていた。


 担架の上の男は大男で、泥と血と汗で濡れていた。脚は太く、時々痙攣する。治癒師が刃を入れ、骨の位置を直し、縫い合わせようとしている。男の喉から獣のような声が漏れた。


「動くな……動くな!」


 セリーヌは必死で、その足を抱え込んだ。

 腕が震える。肩が裂けそうになる。汗が背中を伝い、指が滑りそうになる。だが離せない。離したら、この男は傷を悪化させる。治癒師の手元も狂う。


 その瞬間、セリーヌは理解した。


 前線とは、英雄の舞台ではない。

 泥と血と行動で出来ている。

 誰かが脚を抱え、誰かが包帯を巻き、誰かが湯を沸かし――その積み上げで、ようやく一人が生き残る。


 そして何より、そこにいる者たちは肩書きを見ていない。

 仕事だけを見ている。


 後で治癒師は青くなって謝った。周囲は慌てて膝をついた。

 だがセリーヌは、袖についた血を見て言った。


「気にしないで。……こういうものだと知りたかったの」


 それ以来、セリーヌは決めた。

 守るべきものがあるなら、まず見に行く。

 わからないものは放置せず、目に見えるところに確保する。


◇◇


 馬車が王立大学校へ近づく。紙と薬品と金属と、火の匂いが混ざってくる。

 セリーヌの呼吸が深くなった。


 掲示板の前の学生たちは、王女の到着にも必要以上に慌てなかった。礼はする。だが媚びない。

 その態度が、セリーヌには心地よかった。媚びは思考を腐らせる。


 侍女が研究室の案内予定を説明する。

 セリーヌは頷きながらも、視線が廊下の奥へ吸い寄せられていた。


 甘い匂い。

 社交界の砂糖菓子の甘さではない。火と粉とバターの匂いだ。


(……ここね)


 扉の向こうで炉が赤く戸を開いている。

 炉の前に少女がいた。背丈は高くない。髪が少し乱れ、袖口に粉がつき、貴族令嬢としてはだいぶ“雑”だ。

 けれど目だけが違った。世界を見る目――必要な情報だけを拾い上げる目だ。


 周囲には令嬢たちが集まっている。

 その様子は端的に言えば――甘党の亡者だった。


(……甘党の亡者。ええ、まさに)


 セリーヌは扉の隙間から会話を聞く。


「焦げ目の入り方が一定じゃない、炉の温度勾配が――」

「糖の結晶は湿度に左右されるから保存は密閉のほうが――」

「箱は気密に。けど開け閉めの力が強すぎると崩れる――」


 王女は、そこで初めて息を吐いた。胸の奥の硬い塊が、少し溶ける。


(ひくひくしないお茶会って、こういうこと……)

 リュシア公女はセリーヌ王女の緊張が緩んでいるのを察した。

 それはだらけているというわけではない、公的な王女という立場を脱ぎ、一人の学生という本来の姿を表に出せる場だったのである。


 侍女が咳払いをし、王女の存在を告げる。室内の空気が一瞬止まり、次の瞬間――炉の前の少女が慌てて礼をした。


「グレンウッド領の……ええと……」


 名前はまだ出ない。セリーヌも、わざと名を求めなかった。

 先に知りたいのは、人間の肩書きではなく、中身だ。


「あなた、今――何を議論していたの?」


 少女は目を瞬かせ、それから炉の前の作業と同じ調子で答えた。


「甘味と保存性と、量産の手順です。……戦時には必要になるので」


 研究室の面々が一斉に頷く。

 きっかけはここのご令嬢たちの自分のおやつなのだろう。しかし、そのただのおやつ作りは、令嬢たちの間で雑談となり、彼女らの知性はそれを、ただのお菓子作りにしなかった。ごく自然に社会に役立てる道に傾いていくのだ。


 セリーヌは静かに笑った。

 甘いものは嗜好品だ。だが嗜好品は時に軍を救う。心を救う。


「……いいわ。とてもいい」


 そして王女は次の手を打つ。

 自分が好きな場所を、二度と手放さないために。


「私が顧問になります。形式上でも、守りやすくなるでしょう?」


 教授が目を丸くし、学生たちが息を呑む。

 けれどセリーヌは王女としてではなく、飢えた読書家として、その場に腰を下ろした。


 知性の集団は国の武器だ。

 だから守る。守って、使い道を考える。


◇◇


 その後、王宮の仕立て部屋に奇妙な指示が降りた。

 セリーヌ王女の衣服には、ときおり――茶色と赤の二本の斜め線を入れること。


 場所は一定しない。裾の端、袖口、胸元の内側。豪奢な刺繍の陰に、目立たないように。

 だが見慣れると、必ずそこにあるとわかる程度には、はっきりと。


 社交界は勝手に意味を付けた。

 「遠征の勝利の二本線だ」

 「王家の古い誓約の意匠化だ」

 「赤は忠誠、茶は大地――農業領への配慮だろう」


 誰もが、それらしく語った。

 だが真相はずっと素朴だった。


 野戦治療院の作業服。泥の茶色と血の赤。

 あのとき腕に残った重さと匂いを、忘れないために布の上に残しただけ。


 それが汚れから来たものだとは、ほとんど知られていない。

 知っているのは、あの場にいた数人と――王女自身、そしてリュシアだけだ。



 ある日、野戦治療院の入口で担架の列を捌いていた古参の治癒師が、王女の一行を見て顔を上げた。

 護衛が多い。王宮の人間だ。


 その視線が、ふと止まる。

 外套の端、裾の陰。茶色と赤の二本の斜め線。


 治癒師の指が包帯の結び目でわずかに止まり、胸の奥が条件反射みたいにぴくっと跳ねた。


(……汚れの色だ。泥と血の……)


 彼はすぐ顔を伏せる。そんなはずがない、と自分に言い聞かせるように。


「まさかね」


 だが礼は、いつもよりほんの少しだけ深くなっていた。



 夕刻、馬車で王宮へ戻る。

 リュシアが小さく言った。


「殿下は、結局……現場の匂いがする場所が好きなのですね」

「好き、というより――必要なのよ。見ないと、現実から離れていそうでこわくなる」

リュシアはくすりと笑った。

 変える王女と、馴染ませる公女。二人で一つ。

 王女の網は、今日も静かに広がっていく。


 セリーヌは小さく呟いた。

「国の未来が動くなら、見に行かないと」


 馬車は王宮の門へ滑り込む。

 そして、誰にも気づかれない場所で、茶色と赤の二本線が、薄く光を受けた。

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