第2話 エミリアの始まり
王立大学校の魔法物理実験室は、夕方になると静かになる。
昼の喧騒が引いたあと、ガラス器具の影だけが長く伸び、机の上には黒い粉が残る。
エミリアは白衣の袖をまくり、虫眼鏡を覗き込んでいた。
机の上には、黒鉛の欠片。焼け焦げた木炭。そして、割れた魔石の破片。
並べてみると――同じ「炭素」でも、形が違えば性質が違う。
木炭は元の木の形を残している。年輪の筋、導管の穴。生き物だった痕跡が黒の中に眠っている。
硬く焼かれた炭は、割れ面の一部がガラスみたいに光を返し、黒鉛は薄い層が整っていて、指で触るだけで滑るように剥がれる。
魔石の断面も、黒鉛と似た景色を見せた。
黒い層が幾重にも重なり、奥で銀色の筋が微かに走る。
まるで、層と層の間に――何かが通り抜けた跡があるようだった。
「……断面に層状の構造が見える」
魔石は神秘のこもる“魔力の石”だと皆は言う。
けれど彼女の目には、ただの神秘には見えなかった。
そこへ、扉が乱暴に開いた。
鎧姿のまま入ってきたのは、長身の女。腰に剣。背中に杖。
革と金属、乾いた土と、僅かな油の匂い――前線の装備の匂いがついていた。
「ここが魔法物理研究室?」
開口一番、相手は周囲を見回し、机の上の黒い欠片に目を止めた。
そして、用件だけを切り出す。
「私は王国軍で騎馬魔法士隊をやってる。そして軍部から、その魔法をもっと磨くために勉強してこい、とここに派遣されたわ」
エミリアは一拍だけ瞬きをし、丁寧に頭を下げた。
「エミリア・グレンウッドです。少尉……お名前は」
「クラリス・バークレイ少尉」
軍人は名乗る。名乗ったら次にやるべきことへ移る。
その切り替えの速さが、学生の空気と違っていた。
クラリスは続けた。
「教授に相談したら、まず、魔力の量を調整できること、測れること、の学習と練習をしなさいって。
そのために、エミリアさんと相談しろってね」
「測る、調整する……」
エミリアは机の端に置いた奇妙な器具――金属の輪と針のついた簡易計測器――に視線を落とす。
彼女の目には、それが“未来の入口”に見えた。
「ちょうど、それをやろうとしていました。少尉、火炎魔法を見せてください」
「まって、その前に」
クラリスは両手を握って、ほんの少しだけもじもじした。
「申し訳ないけど、ある程度研究が進んだら、軍に報告書ってやつを書かなくちゃいけないの。そのへん……助けてくれないかな?」
言い切ったあと、彼女は肩をすくめた。
「……って感じ。よろしく」
◇◇
「研究室、燃やさないよな?」
「燃やしません。……燃やしたくないので、黒鉛の上に向けてください」
クラリスはため息をつき、指先を振った。
空気が唸り、黒鉛の試料の上に一瞬で白煙が立ちのぼる。
熱が走る。焦げの匂いが立つ。
そして――エミリアが計測器を覗き込むと、針が跳ね、震えた。
「……やっぱり」
「何が?」
エミリアは針の揺れを見つめたまま言った。
「これは昔から使われている簡易魔力測定器なんですが……“魔力があるかないか”程度は分かっても、威力と一致しないんです。
おそらくは少尉が感じている“出力”と、この針の動きは合っていないでしょうね」
クラリスが眉をひそめる。
「火は出た。敵は焼ける。結果が全部じゃないの?」
「戦場なら、そうです。でも……数値化するには手掛かりが要ります。
この針が当てにならないなら、別の方法で“同じ条件と違う結果”を拾います」
クラリスは一瞬だけ目を細め、すぐに軽口へ逃がした。
「変な女。……でも、まあ。命令だからね。測れるようになれって言われたし」
「協力してくれますか?」
「する。燃やせばいいのね」
「ええ。まずは単純な作業から」
エミリアは机の上の炭と小石を指さした。
「炭に火をつける。小石を一つ跳ね飛ばす。二つに増やす。重さを変える。距離を変える。そのとき少尉が感じる“軽い/重い”が、どこで変わるかを拾います」
「細けぇ!」
「細かくないと、比べられません」
◇◇
実験を重ねるうちに、エミリアは別の違和感にも気づいた。
クラリスの杖の構えが、普通ではない。
腕を寄せ、杖を――脇の下に挟むように固定する。
一見すると妙な姿勢だ。
だがよく見れば、杖の側面が人体の曲面に合わせて膨らみ、広く薄く、ぴたりと接触する形になっている。
「……その杖、変ですね」
「変じゃない。必要なんだよ」
クラリスは淡々と答えた。
布越しに見えるのは、ただ腕を寄せているだけの姿勢。
けれど脇の下の縫い目の奥に、意図的な“隙間”がある。
そこだけ布が二重三重に重なって影を作り、外からは見えない。
その影の中で、杖の接触面が服の下の肌へ直接触れている。
「狭いところに魔力を流すと、痛いんだ」
「……一点に集まるから?」
「そう。皮膚ってのは細い導線みたいなもんだ。そこに無理やり詰め込むと焼ける。痺れる。ひどいと、撃つ前に自分が火傷する」
クラリスはほんのわずかに身を捻った。
杖の接触面が脇腹に密着し、流れが太くなる。
「だから、広く当てて、薄く流す。見た目が妙なのは分かってる。だから服もそれに合わせてある。隠すためじゃない。“成立させる”ため」
その言葉が、エミリアの胸に残った。
魔法は優雅な芸ではない。成立させなければ、危険だ。
◇◇
ある日の夕方。実験の休憩の合間に、エミリアがクラリスの装備というより“身体の癖”を見ていると、ふと口をついて出た。
「……ひょっとして、魔石を持ってる?」
クラリスは一瞬だけ目を丸くし、それから肩をすくめた。
「分かる? まあ分かるよね。ここ押さえると、もっと分かるよ」
みぞおちのあたりを指先で軽く示す。心臓より少し下。胸の奥に“硬いもの”がある位置。
「触ってみる?」
「……いいの?」
「研究でしょ。ほら、押しすぎるなよ。痛いから」
軽口の最後だけは半分本気だ。
エミリアはおずおずと手を伸ばす。
布越しに触れた瞬間、そこだけ体温が違う気がした。硬い。石みたいに硬いのに、体の中にある。
「……あ」
「でしょ」
少しだけ圧をかけると、骨とも筋肉とも違う反発が返ってくる。
丸くて滑らかで、そして――異様に大きい。
「……わかる。かなり大きい」
クラリスは苦笑いのような息を吐いた。
「だから、狭いところに魔力流すと熱いんだよ。こいつ、元気すぎる」
エミリアが手を引っ込めるより早く、クラリスは続けた。
説明というより、見せるための動きだった。
「ここから魔力が出るから、一番近いところから杖に流そうとすると――」
そう言って彼女は杖を持ち、みぞおちではなく肋骨の下――脇腹に、ぴたりと当ててみせた。
「魔石に近いこの辺に、こう……なるわけ」
エミリアは息を飲んだ。
理屈より先に、身体の配置として理解が来る。
「近い。太い。……だから焼けにくい」
「そう。逆に遠いところから流すと、途中が焼ける。痺れる。自分が痛くないようにすると、こういう姿勢になるってわけ」
「……危ないね」
「危ないよ。だから杖がいる。私の身体は結構、規格外なんだ」
クラリスはいつもの軽い顔に戻した。
けれどエミリアは知ってしまった。
強い、という言葉の裏に、硬くて冷たい“重さ”があることを。
実験室は、やがて“焦げ”の匂いが常連になった。
石を撃つ。板を焼く。距離を測る。
白煙の量を記録する。熱量を比べる。
エミリアは、クラリスの一撃ごとに、目と耳と手を動かした。
クラリスは撃ちながら“感触”を口にした。
「今日は軽い。すこし薄い感じ」
「今のは重い。指が押し返された」
「これは危ない。胸の奥が熱い」
その最後の言葉だけは、冗談に聞こえなかった。
「胸の奥が熱い……?」
「心臓の近くが痺れる。皮膚も、ちょっと熱くなる」
エミリアの背筋が冷たくなった。
魔力は外に出て敵を焼くだけではない。使う本人を焼く。
「少尉……あなたの魔法は、あなたを削ってる」
「削ってるよ。だから軍は私を便利な刃として使う。短くて鋭くて、長くはもたない刃――折れたら、前線から消える」
クラリスは笑って言った。笑い方が上手な人だ、とエミリアは思った。
上手すぎて、怖い。
エミリアは机の上の黒鉛を握りしめる。掌に黒い粉がついた。
「対策に、協力させてください」
「は?」
クラリスの声は笑い半分――でも警戒も混ざっていた。
エミリアは言い方を選ぶ。大きな約束の前に、まず状況を揃える。
「少尉の魔法は強い。でも、その強さのせいで少尉自身が傷つく。撃ったあとに胸の奥が熱いって言ったでしょう。皮膚も痺れるって」
「……言ったね」
「そのままだと、敵を焼く前に、少尉が先に傷つく。だから“折れやすい刃”なんですね」
クラリスの目がわずかに細くなる。
「……で、折れないようにするって?」
「はい――戻ってくる分を減らす。体の中に残って熱になる分を」
「戻ってくる?」
「撃ったはずなのに、全部が外に行ってない。一部が体の中で引っかかって、熱や痺れとして残ってる。私はそう見ています」
クラリスは一拍置いて言った。
「……要するに。私の中で渋滞して、焼けてるってこと?」
「はい。渋滞です」
クラリスの目がわずかに鋭くなる。
「……じゃあ、どうするの」
「外へ逃がす。熱や痺れになる前に、外へ流す。そのために“通す道”を増やす必要がある」
エミリアはそこで言葉を止めた。
ここは“研究の始まり”だ。方法を今、完成形として語る段階ではない。
「すぐに完成はしません。でも、道具で近づけます。少尉の身体と杖、その両方を見て、詰まっている場所を探して――そこからです」
クラリスは目を丸くした。
「……あんた、ほんとに変な女」
「そうです。だから、ここにいます」
◇◇
研究室で、エミリアはクラリスの杖を、許可を取ってからそっと眺めた。
杖の魔力経路は、魔石を削って作った部品を組み合わせて作る――そういう作りだと聞いている。
組み合わせ部が多いなら、そこで流れが引っかかる可能性がある。
伝統的な杖職人は、漆や膠で継ぐ。
あれは“固定”には強い。けれど“通り”を良くする材料かどうかは、別の話だ。
エミリアの視線は、机の隅に落ちた黒鉛粉へ移った。
炭の研究で手は黒く汚れている。だが、その黒は嫌いではなかった。
(黒鉛の粉を、粘るもので練ったら――)
(継ぎ目の段差を埋められるかもしれない。道をなめらかにできるかもしれない)
思いついただけだ。
でも、こういう思いつきは、測れば“仮説”になる。
仮説になれば、次は手順にできる。
実験が一段落したあと、エミリアは机の端に積まれたノートを整理しはじめた。
焦げ跡のついた紙、炭粉の指紋、数値の走り書き。
見た目は雑然としているのに、並べ直すと流れが立ち上がる。
「……これ、軍に出す“報告書”にもなるの?」
クラリスが言った。
戦場の緊張とは別の、嫌な種類の緊張が声に混ざっていた。
「はい。形にすれば、そのまま出せます」
「形って……どうやって」
エミリアは笑わず、淡々と、当たり前のように言った。
「書き方には型があります。まず目的。次に方法。次に結果。最後に考察。……これだけです」
「“これだけ”って言う人ほど、だいたい鬼なんだよ」
エミリアはぷっと吹いて、それから紙を引き寄せ、見出しを置いた。
――目的:火炎魔法の出力を、感覚から数値へ翻訳する。
――方法:距離、燃焼範囲、熱傷閾値、煙量、計測器の指針の変化を同時記録する。
――結果:感触「軽い/重い」は、測定値の帯域と対応するか比較する
――考察:胸の奥の熱感は、体内での滞留が原因である可能性が高い。
書きながら、エミリアは手を止めないまま続けた。
「少尉は、“感触”を書けばいいんです」
「それだけで?」
「はい。あなたの感触は現場のデータです。
あなたはそれを言葉にします。私はそれを数にします。
その二つが揃わないと、再現できない」
クラリスはしばらく黙って見出しを眺めた。
そして、気づかないふりをして息を吐いた。
「……道筋、できてるじゃん」
「はい。道筋は私が作ります。
少尉は、その道を歩いてくれればいい」
その瞬間、クラリスの肩がわずかに落ちた。
戦場では一度も下ろせなかった重みを、ほんの少しだけ机に置けたみたいに。
「……なんか、ほっとした」
「それなら、良かった」
クラリスは照れ隠しにノートの端を指で弾いた。
「じゃあさ。私は“軽い/重い/危ない”をちゃんと書く。あんたは、ちゃんとそれを数字にして報告書にする。そういう共同作業ね」
「はい。共同報告書です」
「……共同、か」
その言葉を、クラリスは少しだけ大事に口にした。
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