第8話 能ある燕は爪を隠す
1970年3月初旬。
外苑球場に隣接する「TOKIO燕スターズ」の球団事務所は、
春の暖かさとは裏腹に、張り詰めた緊張感に包まれていた。
「――以上が、オープン戦における私の戦略です」
九条真樹が、黒板に書かれた『能ある燕は爪を隠す大作戦』という文字を指し、
淡々と告げた。
会議室に集まったレギュラー陣の顔ぶれが凍りつく。
「勝ちに行かない……だと?」
捕手の加納俊雄が、絞り出すような声で言った。
「九条コーチ、あんた正気か?
オープン戦は、冬の間磨いた牙を試す場だろうが、
負け癖がつくことの恐ろしさを分かってんのか!」
真樹は表情一つ変えず、加納を見つめ返した。
「牙を磨く場所は、もうブルペン、練習グラウンドとミーティングルームで済ませました。
オープン戦という公衆の面前でそれを見せるのは、
他のチームに情報を献上するのと同じです。
開幕戦、本番までの2週間、
私たちは『所詮は万年Bクラスの弱小チーム』という皮を被り続けるんです」
その隣で、別府監督が苦虫を噛み潰したような顔で黙り込んでいた。
金畑は、その別府の横顔を見ながら、内心で笑いを堪えていた。
――つい1時間前、
この会議室で別府が「野球は理屈じゃねえ、魂と魂のぶつかり合いだ!」と、
机を叩き、真樹と激しく火花を散らしていたのを金畑は見ていた。
真樹が提示した『未来のデータ』の緻密さと、
金畑が放った「監督、ワシらは一旦この九条姉ちゃんに負けとる……
騙されたと思ってもう少し、この姉ちゃんに身を預けてみんか」という助言。
それでようやく、別府は今この場に座っているのだ。
「いい、野手陣たち」真樹が冷徹に命じる。
「守備シフトは一切禁止……定位置から動かないで。
打者は狙い球を絞らず、全打席ただ『来た打てそうな球を強く振る』だけ……ただし――」
真樹が少しだけ声を和らげた。
「1試合につき、1打席だけ、私の指定する『一球』を完璧に捉えることを許可します。
それが、あなたたちの爪の感触を忘れないための報酬です」
「……我慢比べ、ってわけか」
加納が深くため息をついた。
――数日後、外苑球場でオープン戦が幕を開けた。
スタンドには、異例の数の報道陣と野次馬が詰めかけていた。
お目当ては「プロ野球史上初の女性コーチ」九条真樹だ。
「おい、見てみろよ。あの燕のベンチにいる女、とんだべっぴんさんだぜ!」
「ミス・燕か? 観客動員に必死だな、TOKIOも」
望遠レンズが真樹の顔を、身体を、執拗に追いかけ、フラッシュが焚かれる。
そのカメラ列の端で、
小林健太は背負子のカメラのレンズを磨きながら、低く毒づいた。
「へっ、今は撮らせてやるよ。何も知らない奴らどもには……。
開幕の日、そのカメラに写るのはお前らの絶望した顔面だけだ」
小林の手元のノートには、他球団の投球フォーム、打撃の癖、
審判の判定傾向までが鬼のような密度で書き込まれていた。
試合が始まると、異様な光景が広がった。
燕の石田をはじめとする投手陣たちはどの試合でも、
真樹のプランを基にした配給により、素晴らしい投球を見せる。
しかし、良いところでバットに当てられた球が、不運なヒットになっていく。
なぜなら、打球が飛ぶ場所に野手がいないからだ。
シフトを知っているのに、定位置から動けない内野陣は、心の中で叫んでいた。
(おい、今のは九条コーチの予測通り、三遊間に転がったぞ!
シフトを敷いてりゃゲッツーなのに!)
外野手もまた、空を見上げて歯噛みする。
(予測通り、左前方で守ってれば取れたのに!)
「……我慢だ。監督を見ろ」
捕手の加納がマウンドに駆け寄り、石田投手に囁く。
ベンチの別府は、腕組みをしながらニヤリと笑い、首を左右に振る。
『我慢しろ、今はまだ見せるな』
――その無言の圧力が、チームに奇妙な一体感を生んでいた。
そんな中、事件は近畿バイソンズとのオープン戦で起きた。
試合前、ベンチ裏へ続く通路。
バイソンズの守備職人・坂本敏一が、数人の取り巻きを連れて真樹に歩み寄った。
「よお、九条コーチ。
お前さんをモデルにした良い『商品』を見つけたぜ」
坂本がニヤニヤしながら差し出したのは、数枚の写真だった。
それは真樹の写真の胸元に、
卑猥な水着姿の女性の胸を合成した、悪質なコラージュ写真だ。
「場外の怪しい露天商がグッズやら、写真やら、ぎょうさん売っててな、
割と安かったさかい、これ、ネガごと買うたった」
真樹の瞳が、北極の氷のような冷たさを帯びた。
「……昭和の倫理観って、ここまで腐ってたの?」
「はあ?昭和がどうしたって?……まぁ何とでも言えよ……
女がグラウンドにいるってのは、こういうことだ」
伸が坂本の胸ぐらを掴もうと一歩踏み出した。
しかし、その肩を大きな手が制した。
金畑正二だった。
「伸、よせ。そいつの首を獲るのはここやない。白線の内側や」
金畑の低い声に、坂本がたじろぐ。
金畑は真樹を見て、顎をしゃくった。
「姉ちゃん、どうする?
坂本もプロや……ここは、伸の球で黙らせるたるのが筋やないか?」
真樹は坂本を正面から見据え、不敵な笑みを浮かべた。
「ええ。賭けをしましょう、坂本さん。
伸があなたを完全に抑えたら、その露天商からネガとグッズ、
全部買い取ってもらって、私に渡してもらうわ。
もちろん、あなたの自腹でね!」
引っ込みがつかなくなった坂本は吐き捨てる。
「……面白い。やってみろよや、女狐が!」
真樹は伸に向き直り、短く、鋭く告げた。
「伸。一球も、譲らなくていい。あいつのプライドを、粉々にしなさい」
――オープン戦、七回裏。ツーアウト満塁。
TOKIO燕スターズは4対0とリードを許していた。
マスコミも観客も
「やっぱり今年の燕も駄目だ」と確信し始めたそのとき、場内アナウンスが響いた。
『ピッチャーに代わりまして、漆原、背番号0――』
マウンドに上がった伸は、打席の坂本をただ冷たく見つめた。
緊張感など、今の彼には全くなかった。
伸のそのときの心情は、まさに、ただの「ゴミ掃除」だったからだ。
「俺の100マイルの風圧で、バッターボックスを新品同様に綺麗にしてやるぜ」
【初球】いきなりの160キロ。
空気を切り裂く轟音と共に、
白球が坂本の構えるど真ん中に突き刺さった。
坂本は腰を抜かし、尻餅をつく。
「……ッ!? なんだ、今の、ど真ん中やのに、ま、全くタイミングが……」
その瞬間、オープン戦ではなんとか忍び込ませることに成功した、
小林が観客席に設置しておいたスクリーンに、鮮やかな富士山が投影された。
「あ、あれが噂の富士山か! 160キロってーのはやはり凄いんだな!」
観客がどよめく。
「二球目、高めに行くわよ」
ベンチで真樹が呟く。
【二球目】高めの100マイル。
伸の高めのストレートは、
あまりの回転数の多さに浮き上がって見え、坂本はバットを振ることすらできない。
しかし、それは見事に高めいっぱいのストライクゾーンにめり込んでいた。
【三球目】小林が集めたデータに基づいた、
最も坂本が苦手とする『ローツーローのシュート回転』
坂本は空振りし、勢い余って地面を転がった。
三球三振。
伸は無感情のまま、掃除が終わったバッターボックスを一瞥し、マウンドを降りた。
この日の伸の登板、お披露目はこの一打席のみ。
あからさまにがっかりした観客たちが席を立ち始める中、
リリーフ投手たちは真樹の指示通り、
「打たれるが、意図した場所に飛ばさせる」投球をまるで反復練習をするかのように続け、
燕はそのまま敗れた。
試合終了後、球場は冷ややかな空気に包まれた。
「所詮、女のコーチなんかに野球が分かるはずがない」
スポーツ紙の記者が書き殴る中、真樹たちは沈黙を守った。
――翌朝のスポーツ紙は、どれも似たような論調だった。
・データ野球は机上の空論
・選手が委縮している
・彼女は野球を理解していない
・見世物としての女性コーチ
そのどれもが、もっともらしく、断定的だった。
そして――その全てが、等しく的外れだった。
――このオープン戦直後の燕スターズのロッカールーム。
そこには敗戦チームとは思えない熱気が渦巻いていた。
「おい、今日の見たか! あの鈴木 圭からヒット打てたの、俺初めてなんだよ!」
一人の野手が興奮気味に叫ぶ。
「俺もあの鈴木のカーブ、久しぶりにバットの芯で捉えられたぜ!
本当はつなげたかったな……次の打席、お前のあと、打ちたくて仕方なかったぜ」
と内野手が嬉しそうに笑った。
また別の外野手も話に加わる。
「よせよ、俺なんてさっき、我慢できずに打ちそうになったら、
九条コーチがそれを見破ったみてーに怖い顔してよ、
『監督に言いつけるぞ』ってジェスチャーしやがったんだ。
女の勘は鋭すぎるぜ、おー怖っ。慌てて空振りに切り替えたよ、ははは!」
野手たち皆、笑いながら、足元のスパイクを見やった。
「俺も守備位置、動きたくて仕方なくてよ……シフトのサインは完璧に覚えてたから、
もう足がムズムズしちまって……
右足で左足を無理やり踏んづけて堪えたら、スパイクが当たっていたいの何の……」
そこへ投手の石田が、タオルを首にかけながら現れ、不敵に笑った。
「この溜まりに溜まったストレスは、開幕と同時に全部爆発させてやるさ、見てろよ!」
チームは、かつてない奇妙で強固な結束を固めつつあった。
――そして、その夕方。
外苑球場の駐車場に設営された大型テントの中に、一人の男が招かれていた。
燕スターズのオーナー、松島だった。
「九条君、金畑監督。このオープン戦の惨状は何だね。説明してもらおう」
テント内は暗く、中央には場違いな巨大プロジェクターが置かれていた。
「オーナー、まずはこれをご覧ください」
真樹が合図を出すと、小林がスイッチを入れた。
スクリーンに映し出されたのは、つい先ほど行われたオープン戦の映像だった。
しかし、その白黒の映像の上には、ネオンのような青い光のシルエットが重ねられていた。
「これは……何だ?」とオーナーはわけが分からず、瞬きをしている。
真樹はオーナーの目をまっすぐ見つめて、語り始めた。
「私と小林君が開発した『リアルタイム・シャドウ・シフト』です」
バイソンズの打球が右中間に抜けていく映像。
しかし、その先には、あらかじめ青い光の『選手シルエット』が配置されていた。
真樹は流れるように続ける。
「もし本来の守備シフトを敷いていれば、これはセンター正面のライナーでした。
さらにご覧下さい……
燕の打者が狙い球を絞っていた場合、ピッチャーが投げる0.5秒前に、
ストライクゾーンにボールのシルエットが表示されます」
映像の中で、実際の白球と予測されたシルエットが完璧に重なり、消えていく。
「そんな……
打球が飛ぶ場所も、投げるコースも、すべて予見していたというのか?
こ、これは、さすがに……後から編集した、でっち上げなんだろ?なぁ?」
オーナーの松島は、スクリーンの青い残像を見つめたまま立ち尽くしていた。
「そう疑われるのも無理はありません」別府監督が目を見開いて言った。
「でも、これは事実なんです」
「私たちは、オープン戦では、燕が今年も弱いことを『証明』するために戦いました」
真樹が静かに微笑む。
そして、目を伏せて告げる。
「オーナー、燕の選手たちは今、負けているのに確信に満ちています。
『自分たちがどこを守り、何を振ればいいか』、その全回答を知っているからです」
「……金畑君、君もこれを全部知っていたのか?」
オーナーが問いかけると、金畑は最高に愉しげにしかし、恐ろしそうに笑った。
「ええ。最初にこれを見せられた時は、わしも腰が抜けそうになりましたわ。
今のプロ野球界でこれを知っとるのは、燕のレギュラー陣と、極一部の者たちだけです」
――翌朝。
送り主が近畿バイソンズ、坂本とある段ボールが2箱、真樹の元へ届いた。
中には、真樹を撮影したネガとグッズが、ぎっしりと詰まっていた。
真樹は段ボール箱からネガを取り出し、光に透かした。
「あら、なかなか写真映り悪くないじゃない、私」
真樹はいたずらっぽく笑った。
後ろに控えていた小林に声をかけた。
「ねえ、小林君。これ、欲しい?
あんたなら特別にあげてもいいわよ、おかずにする?」
「なっ……お、おかずってなんですか?
あ、それってまさか……何を言ってるんですか!真樹さんは!ふ、 不謹慎だな!」
小林は顔を真っ赤にして叫び、伸の方を見た。
伸が、般若のような恐ろしい顔で自分を凝視しているのに気づき、
小林は悲鳴のような声を上げて逃げ出した。
「ふふ、あははは!あいつ、相変わらずだな!」
伸は小林が逃げたあと、顔を崩し腹をかかえた。
真樹もそれを見て、声を殺して笑った。
「昭和男子には、ちょっと過激な発言すぎちゃたかしら……
ごめん、小林、でもあの顔、ははは……小林、可愛いすぎる!」
その笑い声に気づいた小林は逃げた先で立ち止まり、ふと二人を振り返った。
なーんだ、伸は怒ってなかったのか……と苦笑いしてから、上を向いて、春の空を仰いだ。
そして、また、視線を笑い合う二人に戻した。
あの二人の周りだけが、時が止まったように澄んでいた。
(伸と真樹は、同じ場所を見て、同じ速さで走っている……)
小林は、胸の奥に小さな、痛みにも似た感情を抱いた。
(真樹さん、いや、九条コーチ……
あなたは、一人でこの昭和の全部を相手に戦ってるんだな……
そして、それを支え、隣で同じ嵐を感じられるのは――伸だけなのかな……)
小林は小さくため息をつき、再びノートを広げた。
二人を支えるために、自分ができることは、
この時代のデータを一滴残らず吸い尽くすことだけだ。
外苑球場の掲示板には、TOKIO燕スターズ、オープン戦最下位の数字が並んでいる。
だが、その影で、
世界を変える爪は、静かに、鋭く研ぎ澄まされていた。
誰もまだ、それが「勝利の準備」だとは気づいていない……
「開幕まで、あとわずか……
さあ、G軍の化け物どもたちを引きずり下ろしましに、行きましょうか!」
真樹のその言葉は、春風に乗って、まだ見ぬ熱狂の季節へと消えていった。
次の更新予定
バーサス・ V9 ――100マイルのタイムトラベラー KOJI TOWNSEND @Koji_Townsend
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