第5話 再臨の死神、多摩川の咆哮
2007年11月14日 新宿。
漆原伸は再び石のように動かなくなった右腕と共に、病室の白い天井を見つめていた。
1969年のあの多摩川の熱気は、やはり死に際に見せた夢だったのか。
そこへ、ガラガラと大きなワゴンを押して九条真樹が入ってきた。
ワゴンの上には見たこともない機械が並んでいる。
伸はそのワゴンと真樹を見て、微笑みながら
「ふふ……夢ではなかったようだな……
ってことは俺たち、2007年に戻って来ちまったってことか……どれくらい経った?」
真樹はシンの心拍データをチェックしながら説明した。
「一週間よ。あなた、ずっと寝込んでたわ
私はその間、戻された原因を分析してた。
タイムスリップのトリガーは、あなたの心拍数が上昇し、興奮状態にあるとき
【回復パッチ】『クロノス・レメディ (Chronos Remedy)』
の成分が全身を駆け巡る――その瞬間、心臓が激しく波打つと、
時空の特異点と共鳴するみたいなの」
伸は苦しそうに呟く。
「……7日もかかったのか。今すぐ、あのマウンドに戻りてぇ」
真樹はワゴンに載った複雑な機械――バイオイコライザーを調整し始めた。
「この装置は、あなたの壊れた細胞を一時的に安定させ、繋ぎ止めるためのもの。
今回、調整するのに丸7日間かかった。
……伸、あなたは一週間、死の淵を彷徨いながら、この機械で生かされていたの」
伸は真剣な眼差しで、食い入るように真樹を見つめ
「俺、また1969年のプロテストの日に戻れるのか?」
真樹は力強くこたえる。
「ええ、イコライザーで心拍数の値を強制的に合わせれば、
また同じ年代、同じ時間の過去に戻れると思う……100%とは言えないけど」
真樹は伸の瞳をじっと覗き込んで
「でもね、分析してわかったの……回復パッチの効果が
この現代、2007年にいる間は、ほとんどないの。
だから……ここにいては、あなたの病状は進んでしまう……
……だから、戻るしかないの……ごめんなさい」
伸は笑いながらこたえる。
「なに謝ってんだ……俺はとっくにあの時代の住人のつもりだぜ
選択肢がない?大歓迎じゃねーか」
真樹は苦渋の表情で告白した。
「でもね、こうなってしまったことは、私の責任でもあるの……
パッチのバイオ制御が私の年代設定に対して、バグを引き起こしたのよ。
あなたの全盛期だと思われた2002年の肉体でも病気に勝てないと判断して、
1969年をなぜか勝手にターゲットに選んでしまった……」
真樹は顔を歪めた。
「そのせいで、
2007年のあなたは『不要な時間の存在』としてパッチに切り捨てられ、
機能が止まっているの。ごめんなさい……」
伸は真樹の手に手を重ね、遮るように言った。
「だから謝るなって、お前が助けなきゃ俺はとっくに死んでた。
そんなことより、もし1969年のあの過去で俺が死んだら、
お前はどうなる? 無事にこの時代へ戻れるのか?」
真樹は伸の重ねた手を握りしめてこたえる。
「病人が人の心配?大丈夫よ、あなたがもし死んだら
私はここへ自然と戻されるわ……一人っきりで……」
真樹の握りしめた手が小刻みに震えていた。
伸は掠れた声で呟く。
「一緒に来てくれるか?」
真樹は涙を拭いながら
「うん……行く」
そう言って、真樹はワゴンを指さした。
「これを見て、過去に持って行きたい物を、ワゴンにしこたま詰め込んであるの」
そこには2007年のプロジェクターや、様々なガジェットが詰め込まれていた。
真樹がイコライザーの数値を入力し、時空が再び歪み始めた。
――1969年11月14日。
東京 多摩川近郊 小林宅。
伸と真樹、二人が消えてからの7日間、
小林は一人、夜な夜な庭に停めた、あのリヤカーを眺めていた。
家の中からは1969年、その年のG軍V5達成を讃える
白黒テレビ番組の音が漏れ聞こえてくる。
「俺の人生なんて、G軍が勝つのを横目で見て、
誰にも名前を覚えられずに終わるんだ……」
だが、目の前のリヤカーには、あの「電子頭脳」の配線が残っている。
「……戻ってきてくれ。あんな凄い球、俺はまだ一度しか見てないんだ!」
じっと夜空を見つめる小林。
そこへ、時空を裂く青白い光と共に伸、真樹の二人が現れる──
伸は小林の肩を勢いよく叩いて
「よう!元気だったか、主任工作員!?」
真樹は近所の買い物から帰って来たような調子で
「ちょっと未来へ戻って、機材取りに行ってたわ」
と小林にウインクする。
「う、うわあああ! 本当に戻ってきた!」
小林は涙を拭いながら
「あーああ…… 本当に未来人だったんだね!疑ってごめんよ!」
再び現れた伸と真樹に、小林は半べそをかきながら腰を抜かした。
伸の体からは2007年の消毒液の匂いがしたが、
その目には再び「死神」のギラついた光が宿っている。
二人が消えてからの7日間、
小林は「あれは夢だったんだ」と自分に言い聞かせ、
抜け殻のように過ごしていた。
「小林……悪かったな、待たせて」
その伸の言葉に、小林は爆発したような勢いで立ち上がった。
「夢じゃなかった! だったら、一秒も無駄に出来ません!
あと3日ですよ、プロテストまで!
すぐに準備を始めます。僕の家を、作戦本部にしてください!」
驚きと感動を燃料に変えた小林は、その日のうちに地主の実家へ走り、
食料と資材を猛烈な勢いでかき集め始めた。
――11月15日夜。
この夜、小林の家には豪華な食卓が用意された。
「実家パワー全開ですよ!全部 食べてください!」
築地直送のマグロ、滋味溢れる地鶏の塩焼き、土の匂いがする新鮮な野菜。
「うまい! 2007年のメシも最高だと思ってたが、
この時代の素材はもっと味が濃いな!」
伸が白米をかき込む。
負けじと、真樹も普段の冷静さを忘れてマグロを頬張っていた。
「……本当に最高ね。私なんか、食費をケチってたから週に4日は
『プロテインペースト』で済ませてたもの」
「プロ……何です? 未来ではよく食べるんですか、それ」
小林の問いに、真樹はハッとして動きを止めた。
「え、ええ……そ、そうよ! 美容食よ! 未来の女性の間では大流行なの!」
真樹は、なぜかじっとりと汗をかきながら説明する。
小林は「へぇ、美容食かぁ」と納得した。
この「生命力溢れる昭和の食事」は、伸の体に良い影響を与えた。
もちろん、回復パッチの効果がベースにはあるが、
真樹がタブレットで数値を測定すると、心拍数や血圧がすこぶる安定し、
細胞の活性値が徐々に元に戻りつつあった。
――11月16日 プロテスト前夜。
小林宅の庭。
庭の隅に置かれた壊れかけの井戸から、冷たい水が滴る音が響いている。
1969年の夜は、2007年の新宿と違って驚くほど暗く、そして静かだった。
遠くで聞こえる犬の遠吠えと、かすかな焚き火の匂いが、
明日という運命の日を前にした静寂を際立たせている。
真樹は慎重に何度もタブレットの値を確認しながら、
伸の延髄に、もう一枚の小さなシールを重ねて貼った。
「これは【安定化パッチ】『アンカー・シール (Anchor Seal)』よ。
火事のときのように、興奮して心拍が上がった瞬間に
現代へ引き戻されないためのアンカーよ。
でも、これを使うってことは、あなたの心臓や内臓の悲鳴を無視して、
回復パッチを動かし続けるようなものよ……いいのね?」
伸は真樹の肩に手を置いてこたえた。
「ああ。地獄の沙汰も、マウンド次第ってことだな」
伸の指先から伝わる体温に、真樹は一瞬だけ目を閉じた。
それは単なる体温ではない、命を燃料にして燃え上がる、
暴力的なまでの鼓動だった。
しばらくすると、
庭で伸はシャドーピッチングを開始する。
その伸の背中を見ながら、
真樹と小林はリヤカー上の機器の最終調整を行っていた。
小林の作った「リニューアル計算機」は、
2007年製のプロジェクターをガラクタで見事に擬装していた。
タブレットから飛ばされたデータは、超速大容量規格『Goldtooth』によって、
ワイヤレスで受信機へと転送される。
このBluetoothならぬ『Goldtooth』は、
真樹が密かに何やら怪しげなガジェットを、
2007年製のプロジェクターへ拡張搭載したものだった。
小林は自信満々の顔で発表する。
「伸さん、この間、多摩川グランドで
観衆は『161キロ』っていう数字を見てもピンときていませんでした」
小林がノートを広げる。
「まだ、スピードガンが存在しない1969年、この時代の人々に「あの数字」は、
抽象的すぎたんです。
恥ずかしながら僕も、真樹さんにスピードガンの存在を説明されるまでは、
同じようなものでした」
小林はプロジェクターをトントンと叩きながら
「だから、明日のプロテストでは『電子頭脳』の数字の後ろに、
伝わりやすい絵を出すようにしてみました!」
小林がプロジェクターのテスト映像を映し出す。
• 150キロを超えると「東京タワー」
• 155キロを超えると「東京タワーの電飾がチカチカ点滅」
• 160キロを超えると「富士山」
• 165キロを超えると「富士山が噴火」
「これなら、数字に疎そうな野球選手たちも、この時代のスカウトさんたちも
一発でヤバさが伝わると思うんです!」
伸は不敵に笑った。
「富士山の噴火か……いいじゃねえか!」
真樹は楽しそうに小林に笑い掛ける。
「ヤバいの使い方、完璧ね。
これであなたも本格的に未来人の仲間入りよ!」
プロジェクターが映し出す光が、夜の庭の木々を怪しく青く染める。
その光の中に浮かび上がる伸のシルエットは、
まるで過去と未来の狭間に立つ、この世ならぬ者のように見えた。
「……私ね、実は兄がいるの」
真樹がふと、夜空を見上げて呟いた。
「……MLBの選手だったわ……
でも、彼は選手を続けるのが難しくなって、夢が絶たれちゃったの。
……だから伸には、兄の分まで活躍してほしい」
伸はその会話を背中で聞きながら、言葉を返す代わりに、
静かに、そして力強く右腕を振り下ろした。
乾いた風を切る音が、暗闇を鋭く切り裂いた。
――11月17日 多摩川グラウンド。
運命の11月17日。
多摩川グラウンドは、平日の昼間とは思えない異様な熱気に包まれていた。
マスコミのリークにより集まった野次馬。
そしてバックネット裏の最前列から少し離れた隅に、
深く帽子を被った二人の男――
G軍の河上哲夫監督と正捕手の森田昌夫が潜んでいる。
「161キロか……今の日本にそんな男がいるなら、この目で見ておかねばならん」
河上監督の冷徹な眼光がマウンドを射抜く。
「来たか、オールドルーキー!」
金畑正二の声が響き、伸が燕スターズのユニフォームを纏ってマウンドへ上がった。
金畑はまた、キャッチャーの真後ろを陣取っていた。
燕スターズの若きスター、武田四郎がバッターボックスで構える。
「主任工作員、準備はいい?」
真樹の合図で、小林がリヤカーのプロジェクターのスイッチを入れる。
金畑正二が吼えた。
「おい、武田!新人王取ったその実力で、
このオールドルーキーを泣かせてみろ!」
【一球目】
伸が振りかぶった瞬間、延髄の回復パッチが淡く光った。
――ドォォォォン!!
凄まじい風切り音と共に、白球がミットを叩く。
スクリーンに鮮やかな「東京タワー」が映し出され、数字が浮かぶ。
『154km/h』
「なっ……!?」
観衆は数字よりも、大きく映し出されたタワーの絵に目を剥いた。
「おい、東京タワーだぞ! 154って、そんなに凄いのか!?」
【二球目】
伸がセットポジションに入る。
打席の武田が、踏み込んでフルスイングの構えを見せる。
(……チッ、打者が踏み込んでくると、あのときの感覚が……!)
伸の脳裏に、2007年のあの死球の瞬間がよぎる。
指先にわずかな迷いが生じ、冷や汗が流れる。
放たれた球はわずかに対角へ逸れた。
――バキィィィン!!
今度はスクリーンに鮮やかな「東京タワーとその電飾」が点滅し、数字が浮かぶ。
『157km/h』
観衆は、タワーの電飾に触発されて
「おい、今度は東京タワーが瞬いてるぞ!さすが 157キロだな!」
空振りは取ったものの、伸は内側で悪態をついた。
(くそ! 身体は動くのに、心がまだあの死球に怯えてやがる!)
バックネット裏で、河上監督の眼光が鋭くなる。
「森田、見たか?今の球、わずかに淀みがあった。
あの男……何かを恐れているな……」
【三球目】
(……黙れ! 過去だのトラウマだの、全部この一球でぶち殺してやる!)
伸は精神を研ぎ澄まし、安定化パッチの刺激に耐えながら、右腕を全力で振り抜いた。
――ドォォォォン!!
ミットの芯が焦げるような音、武田のバットは完全に空を切っていた。
スクリーンが真っ青に染まり、雄大な「富士山」の絵が映し出された。
表示された数字は――『160km/h』
「なっ……富士山が出た……これが160キロなのか!」
河上監督の帽子が、観衆のどよめきによる風に舞ったようにズレた。
「……ば、化け物だ、160キロ……数字はよく分からんが、
確かに凄い球ですよこれは!」
隣の森田捕手が震える声で呟いた。
金畑正二が、腹の底から笑いながらマウンドへ駆け寄った。
「ガハハハハ! 合格や! 文句なしに合格や! ワシが保証したる!」
金畑が伸の肩を力強く叩く。
伸、真樹、小林、三人は駆け寄り、がっちりと拳を合わせた。
1969年の秋空の下、
書き換えられた歴史の第一歩が、富士山の輝きと共に始まった。
しかし、その夜……伸は一人になったとき、
右腕の感覚が、ほんの一拍だけ遅れて戻るのを感じていた。
「夢じゃなかったんだ、そして合格出来たんだ、それだけで今はよしとするさ……」
伸はそう自分に言い聞かせていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます