第4話 昭和の牛乳と隣家の火事
グラウンドを後にしつつ、伸は真樹にだけ聞こえる声で尋ねた。
「……真樹。体が回復して、どうでもいい気さえしてたとこなんだが、
ゴリラの俺でもさすがに無視出来んよ。
ここへ来たのはこのパッチが関係してるんだよな?」
真樹は少し視線を泳がせる。
「あ、え、えー、た、たぶん……」
伸は真樹の顔色を伺いつつ
「このパッチ……銭湯でも行ってシャワー浴びてーけど、剥がしたらダメだよな?」
真樹は少し引きつった顔で不安げに伸の顔を覗き込んだ。
「そ、そうだね、や、やめといた方がいいと思う。
その……は、剥がす気あるの?」
伸はとぼけたような真面目な顔で
「うーん、まあ、お前がやめとけって言うならまー、
わざとは剥がさねーけどよ、風呂でお湯浴びたら剥がれねーか?」
真樹は伸から視線を逸らすように、よそ見をしながらこたえた。
「あ、それなら大丈夫。もう体に成分は浸透してるから、
もし剥がれても回復パッチの効能は続くはずよ……。
で、でもタオルでゴシゴシ擦ったりはしないでね。
石鹸つけて、優しく洗って、湯船につかるくらいなら平気。
まーその……な、なるべくほっといてくれれば……」
伸は何やら慌てた気配の真樹を優しい目で追いながら、
しかし、あっけらかんとして言った。
「ふーん……使用用法にずいぶん詳しいんだな……。
そうか……わかった、じゃー風呂行くか?」
真樹は(もうこれで質問は終わり?)と少し驚いた顔で
「えっ? え? ……そ、そうね、い、行きましょうか」
そんな中、伸は少し離れたところで、
こっそりと、その場から逃げ出そうとしていた小林をみつけ、
横目でにらみつけた。
気付いて固まる小林に、伸が真樹へ顎で合図を送る。
すると、真樹は小林にすり寄り、少し色っぽい声で囁いた。
「リヤカー重くて汗かいたでしょ? お風呂一緒に行かない?」
小林は顔を赤くし、震えながらこたえる。
「こ、断ったら……ど、どうなります……?」
真樹はにっこり笑って
「お勧めはしないわ」
逃げ場を失った小林は、二人に脇を固められながら、銭湯へと向かった。
多摩川グラウンドからほど近い場所に、その銭湯「球の湯」はあった。
年季の入った木造の建物からは、薪で湯を沸かす香ばしい煙が立ち昇っている。
暖簾をくぐれば、番台には無愛想な老婆が座り、
脱衣所には使い古された籐の籠が並んでいた。
高い天井に反響するケロリン桶のカポーンという音。
2007年の新宿にはもう存在しない、
湿り気を帯びた懐かしい「生活の音」がそこにはあった。
男湯に入った伸と小林。
気まずい沈黙を破ったのは小林だった。
「あの……真樹さんとはどういうご関係で?」
伸は湯船に浸かり、目を閉じた。
「5年前、歌舞伎町の路地裏で意識を失って倒れてたあいつを、俺が拾ったんだ。
どう見てもボロボロな感じで、見たこともねぇ変な服着ててよ……
少し記憶も曖昧で、身元も覚えてねぇって言ってたよ。
まあ、それがどこまで本当かはな……
訳アリそうなヤツを助けておいて、問いただすってーのも野暮ってもんだろ?」
小林は頭にのせたタオルで、噴き出している汗を拭きながら、恐る恐る尋ねた。
「……あ、あの、でも未来から来たっていうのは冗談ですよね?」
伸は小林を値踏みするように観察しながら
「俺もそう思いてー部分もあるが、本当なんだよ、実のとこ」
小林は伸の観察目線に震えながら、
(この人もやっぱり頭やられちゃってるのか……
もし本当に、燕スターズに入っちゃったらどうしよう……
お、俺のせいだ……)
と心の中で吐きそうになっていた。
銭湯の小さな待合室。
風呂上がりの真樹は牛乳の入った冷蔵庫の前で腕組みをしていた。
伸は真樹に尋ねる。
「飲みてえのか?」
真樹は小林にすり寄った。
小林は膨れながらも、顔を少し赤らめて叫ぶ。
「え?もー、銭湯も僕が二人分出したじゃないですか! 牛乳もですか?」
小林の悲鳴に、真樹は無言でウインクを飛ばす。
結局、小林が奢る羽目になった。
真樹「私、苺牛乳!」
伸「俺はコーヒー牛乳だな」
真樹「小林さんはフルーツにしなよ! っで、一口ちょうだい?」
小林「ぼ、僕がお金出すのに選択権もないんですか?」
真樹「なに、ほら……関節キッスだよ……ね?」
小林は真樹のなんとも言えない色気を絡めた威圧と誘いに言い返すことも出来ず、
フルーツ牛乳を手に取った。
「ま、まったく、弱み握られてるから……仕方なくですからね」
伸と真樹、そして小林は、容器の紙の蓋を専用串でカパッと空け、
小林は真樹にフルーツ牛乳を一旦渡す。
真樹は一口のみ
「フルーツってほとんど、バナナ味なのね。バナナ牛乳って書いとけばいいのに」
「まあ、そうかもですね……もういいですか?
僕の牛乳、バナナ牛乳でもいいから返して下さい」
そういって小林は、少し赤くなった頬を隠すように背を向けながら、
真樹から牛乳瓶を受け取った。
そして三人は腰に手を当てて、牛乳をグビグビと勢いよく一気に喉に流し込む。
「くはぁっ!!」
さらに伸と真樹は幸せそうに
「昭和の牛乳、最高だな!」
と声を響かせた。
――しばらく牛乳の余韻に浸ったあと
小林は真樹に
「バナナ牛乳でお腹が冷えたみたいです」
と言い残し、トイレに立った。
その場に伸と二人きりとなった真樹が尋ねた。
「ねぇ、なんでもっと回復パッチのこととか、私のこととか、
なぜ過去に来ちゃったのかとか、聞かないの?
本当は聞きたいこと山積みでしょ?」
伸は天井を見上げながらこたえた。
「お前は、言えるなら、俺に言うだろ?
タイミングはお前に任せときゃって思ってただけさ」
伸は空き瓶を見つめて笑った。
「それに俺、実は今、死んでるんじゃねーかって、ちょっと思っててさ。
救急車に乗った後、俺、実は死んでて、これは全部夢なんじゃねーかってよ。
もしそうなら、夢から覚めたくねーなって……」
その伸の不安そうな顔を真樹は見つめている。
伸はその真樹に気づいたが、こらえ切れず、
真樹の肩を正面からしっかりと掴んで、その手を震わせながら言った。
「お前もいて、また野球が出来るかもしれねーんだぜ、最高じゃねーか!
夢だとしてもよ、俺はいっさい断る。
これが夢なら絶ってー覚めてなんかやるもんか!」
真樹は伸を見つめ、涙ぐみながら静かに、だが力強く言った。
「私を信じてくれて、ありがとう……
これ、夢じゃないよ!
タイミングが来たらちゃんと話すから、待っててくれる?」
伸はただ、「おう!」とだけこたえた。
銭湯から外に出ると、結局、
帰る場所のない二人は小林の家に居候することになった。
小林は実家が太く、古い一軒家に一人で住んでいた。
「絶対に嫌だ!」と叫ぶ小林だったが、
真樹が「あなたが中学のときに書いた……」と口走るや否や、
小林は顔を真っ赤にして承諾した。
夜の9時頃、大変な一日だった疲れと眠気が三人を襲ってきた。
だがちょうどそのとき、隣家で火事が発生する。
隣家から立ち昇る煙と匂いに真樹が気づいた。
「小林、隣に知らせに行って!」
慌てていたせいか、馴染んだせいか、真樹はそのときから小林を呼び捨てにする。
留守の隣家に、伸は塀を駆け上り、玄関を体当たりでぶち破った。
「消火器だ! 早くしろ!」
真樹が濡れたタオルを伸の口に当て、
小林が持ってきた消火器を抱え、伸が炎の中に突っ込んでいく。
このとき、炎の熱気にさらされた瞬間、
伸は首筋が焼けるように熱を持ち、
パッチの奥で、何かが不規則に脈打つのを感じた。
火を消し止め、近所の人々が集まってくる頃、
伸と真樹と小林の三人は小林の家の庭へ戻った。
「ふぅ、なんとかなったな……」
激しい呼吸を整えながらそう呟き、伸は興奮で肩を揺らした。
と、その瞬間――
「え……?」
小林の目の前で、二人の輪郭が陽炎のように歪み、パッと消え去った。
その事態に、小林の声は言葉にならず、ただ、喉がひくりと鳴るだけだった……
数秒してようやく、小林は息を吐きながら、
「き、消えた……
ほ、本当に、未来人だったのか!」
小林の驚愕した声が、昭和の夜空に虚しく溶けていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます