第9話  可能性  

 ■連絡

 学は、美穂にかけたスマホの呼び鈴の音をじっと聞いていた。

 ――会社のスマホだろうか。出てくれるだろうか。

 胸の奥で、何か小さく跳ねる。

 ……あ、つながった。


 「もしもし、柏田さんですか」

 「はい」

 その声を聞いた瞬間、学は思わずスマホを落としそうになり、慌てて握り直した。薄暗い部屋の中、学はスマホを耳に当てる。

 窓の外では、夕方の光が色を失い、部屋の輪郭がゆっくり沈んでいく。

 机の上には読みかけの資料が散らばり、冷めたコーヒーの酸味だけが空気に残っていた。

 「柏田さん、私、栗田と言います」

 「分かりますよ」

 その一言に、学は小さく息を吐いた。

 覚えていてくれた。それだけで、胸の奥が少し軽くなる。


 「前にやった、精神疾患の当事者向けのシンポジウムって、今度いつありますか」

 言い方が唐突なのは自分でも分かっていた。けれど、美穂は受話口の向こうで紙をめくる音を立て、落ち着いた声で答えた。


 「ああ、栗田さん。そうね……新年度までは無いみたいですよ」

 「そうですか」

 その瞬間、学の声がわずかに沈む。

 自分では隠したつもりだったが、美穂はすぐに気づいた。

 「そんなにがっかりしないで。私どもの集まりが月に2回ありますから」

 その声音には、仕事の調子とは違う柔らかさがあった。


 誰かの落胆を、そっと拾い上げるような響き。

 学は姿勢を直し、机の端に視線を落とす。

 「ところで、柏田さんは今、何をしているんですか」

 「今、レポートをまとめているところ。忙しいのよ、ほんとに」

 言葉は忙しさを帯びているのに、声の端には疲れと、少しの笑みが混じっていた。


 「へぇー、それは大変そうですね」

 ぶっきらぼうに言ったつもりはなかったが、美穂はすぐに反応した。

 「なんか、それ、感情がこもってないわね」

 「そんなことないです」

 言い返した声が、自分でも驚くほど平坦だった。

 その平坦さが、逆に胸に刺さる。


 「じゃあ、新年度のシンポジウムの前に、月2回の集まりがありますけど……それに、参加しますか」

 「ああ、チラシにあった集まりですね。はい、お願いします」

 その返事は、少しだけ丁寧になった。


 ■電話を切って

 通話が切れると、部屋の空気が急に広がった。

 さっきまで耳のそばにあった声が消え、静けさが部屋の隅々まで満ちていく。

 「感情がこもってないわね」

 その言葉が、まだ胸のどこかに引っかかっていた。

 図星だ。


 机の上のコーヒーカップに目を落とすと、底に残った黒い液体が、やけに冷たく見えた。

 どう言えばよかったのか考えようとすると、言葉がすぐ霧になって消えていく。

 それでも、美穂の声はどこか柔らかかった。

 「そんなに、がっかりしないで……」

 あの言い方は、仕事の声ではなかった。


 誰かが、自分の落ちた心をそっと拾い上げようとしてくれたような響きがあった。

 「月に2回の集まりに参加しますか?」

 その誘いが、ただの案内以上のものに聞こえたのは、きっと自分の勝手な思い込みだ。

 それでも、胸の奥に小さな灯りがともる。


 スマホを机に置くと、画面に映った自分の影が揺れた。

 不器用さが、じわりと浮かび上がる。

 どうして、もう少しうまく話せないんだろう。


 ——でも、まあいい。

 あの人なら、きっと笑って受け流してくれる。

 静かな部屋の中で、さっきの声だけが、まだ耳の奥に残っていた。

 その余韻が、冷えた空気の中で、ほんの少しだけ心を温めていた。

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