第8話  柏田 美穂

 ■通話

 その頃、美穂もまた、別の場所で一日を終えていた。

 夕方の部屋に、ゆっくりと夜が降りてくる。

 美穂は、今日の相談記録を閉じてから、しばらくぼんやりと窓の外を眺めていた。

 人の話を聴く仕事をしていると、自分の心の奥に沈んでいたものが、ふと浮かび上がる瞬間がある。

 アラフォーになっても、それは変わらない。

 洗濯物を畳みながら、「今日はよくやった」と自分に言い聞かせる。

 その声は、誰にも聞こえない小さな励まし。


 テーブルの端に置いたスマホは時折震える。

 学とは、まだ、シンポジウムで、会った時に、顔を見て知ってる程度。

 普通の精神障碍者には見えない、何かわけがありそうだ。


 テーブルの端に置かれたスマホは、まるで人生の友として、切っても切れない関係となっている。

 時折、通知の光や、着信の震えがある。

 

 学について知っている事は少ない。第一印象は軽薄そうに見えること……。そして、そこには、統合失調症の人の特有の陰鬱な崩れが見られないことだった。


 彼が小説を書いていることも、周囲の誰かが話していたのを耳にしただけだ。

 「統合失調症の人が、どんな話を書くんだろうね……」


 美穂は、畳んだタオルを重ねながら、ふとそんなことをつぶやいた。

 自分でも驚くほど自然に、思い浮ぶ。


 確かに、興味というほど強いものではない。でも、心のどこかに引っかかる。

 彼の言葉の選び方や、話すときの少し照れたような間が、なぜか印象に残っている。

 カモミールティーの香りが部屋に広がる。

 湯気の向こうで、今日の相談者の言葉がまた浮かんだ。


 「人って、距離があるからこそ気になることもあるんですよね」

 美穂は、思わず苦笑した。

 まるで自分に向けられた言葉のようだった。


 そのときだった。

 テーブルの上で、スマホが小さく震えた。

 一瞬、心臓が跳ねる。

 こんな時間に誰だろう。相談者かもしれない。職場からかもしれない。

 でも、画面に浮かんだ名前は、そのどれでもなかった。

 “栗田 学”

 美穂は、息を飲んだ。

 「……どうして、今?」

 驚きよりも、胸の奥に静かに広がるざわめきのほうが大きかった。

 まだ互いのことをほとんど知らない。

 それなのに、この着信は、なぜか今日一日の疲れを、忘れさせるようだった。


 スマホを手に取る。

 指先が、ほんの少し震える。

 通話ボタンに触れる直前、美穂は小さく息を整えた。

 「……出よう」

 自分に言い聞かせるように、そっと通話ボタンを押した。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る