第6話   気づき

 ■ああ、練子

 心の中を耕して出来た土壌の奥には、錬子への恋慕が根を張っていた。

 茜にはまだ幼さが残り、つり合いが取れない。順子は、余りにも老齢すぎる。

 こうして、2本の苗が枯れると、練子の苗が大きく育った。


 彼の恋心の中は、錬子の思いで占められていた。

 ただ、順子との恋愛ごっこの中で、学は女性という存在に対する“免疫”のようなものを、少しずつ身につけていく……。


 触れれば壊れてしまいそうだった女性という存在が、実は笑い、怒り、冗談を言い、時にこちらを振り回す、そんな“生きた他者”なのだと知った。


 その経験が、学の中に奇妙な自信と、同時に焦りを生んだ。

 ――自分は、錬子以外の誰かとだって、付き合えるのではないか。

 ――いや、付き合えるようにならなければ。

 そんな思いが胸の奥で膨らみ、学は「どこかへ出かけなければ」という衝動に駆られた。


 家にいても、職場にいても、錬子の影ばかりが濃くなる。

 自分の世界を広げなければ、恋慕はただの妄想のまま腐ってしまう。

 それは、学の持つ“気づきの力”が生み出した、ある種の予感でもあった。


 ■自助グループ

 その頃からだ。

 学の心に、精神障害の自助グループという言葉が、妙に引っかかるようになったのは。

 そこには、恋愛とは別の意味で“他者”がいる。弱さを隠さずに話す人たち。自分の痛みを、誰かの前にそっと置いてみる人たち。

 そして、その痛みを否定せずに受け取る人たち。


 学は思った。

 ――あそこなら、自分を受け入れてくれるかもしれない。

 ――錬子への恋慕に絡みついた根っこを、少しほぐせるかもしれない。

 自助グループに入ってみたいという思いは、日に日に強くなっていった。


 外に目を向けたのは、学の持つ“気づきの力”であった。

 それは逃避ではなく、むしろ“出会い”への準備のようでもあった。


 ただ、“気づきの力”が時に学を苦しめる。


 ■支援員さん

 学は、支援員たちが自分の話をしているのを、ふと耳にしてしまった。

 「なかなか仕事を覚えなくて、使いにくい」

 「目標を勝手に立てて、ひとりで突っ走る」


 その断片が胸の奥に落ち、冷たいものが広がった。

 怒りを通り越して呆れている——

 その言葉は、学の想像の中で必要以上に膨らんでいく。


 外に目を向けると、駐車場の境に枯れ木が一本立っていた。

 それは彼自身の弱さを映すように見えたが、近づくと、次の季節のための準備がもう始まっていた。

 学は、その変化にすがるように視線を向け続けた。

 その小さな変化が、胸の冷たさをわずかに和らげるように思えた。


 しかし同時に、支援員たちの声には、どこか安堵のような響きもあった。

 「でも、最近は事務所にちゃんと来るようになったしね」

 「そこは良かったよな」

 そんな調子で、少しだけ笑い声が混じっていた。


 学には、その笑いが自分を馬鹿にしているのか、それとも本当に喜んでくれているのか、判断がつかなかった。


 支援員たちが何を考えているのか分からない。

 だからこそ、学はあらゆる可能性を考え、そのどれにも備えなければならないと思い込んでしまう。


 褒められる可能性。叱られる可能性。期待される可能性。見放される可能性。

 そして、ただの雑談として流される可能性。


 そのすべてを想定し、心の中で返事を用意し、表情を整え、呼吸の仕方まで調整しようとする。


 まるで、舞台に立つ役者が、観客の反応をすべて予測しようとするかのように。

 だが、学は同時に思っていた。

 ――自分は、そんなにおかしなことはしてこなかったはずだ。

 ――ただ、少し不器用で、少し焦っていただけだ。

 そう思おうとするのだが、胸の奥のざわつきは消えない。


 学は、「越後の魂」を信じているが、それは曖昧なので、支援員さんが言う事が、彼にとって“評価”であると同時に、“生き方の指針”のようにも聞こえてしまうからだ。


 事務所の扉が見えてくると、学の歩幅はわずかに乱れた。

 落ち着こうとするほど呼吸は浅くなり、「大丈夫だ」と言い聞かせるほど胸のざわめきは強くなる。

 

 それは、“負の気づきの力”所為であった。

 “気づきの力”は、学にとって祝福でもあり呪いでもある。


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