第5話  内なる敵

 ■対峙

 その日の帰り道、学は事業所Ⅿを出て暫くすると、足が止まった。

 冬の風が頬を刺す。

 だが、それ以上に胸の奥が痛んでいた。

 ――また、胸の奥の声にやられた。

 ウマ男の言葉ではない。

 名札の角度でもない。


 胸の奥で、ずっと、うめき続けている声。

 (お前が悪いんだ)

 (だから狙われるんだ)

 その声は、ウマ男よりも鋭く、誰よりも学を傷つける。

 

 学は歩道の端に立ち、深く息を吸った。

 「……もう、やめてくれよ」

 誰に向けた言葉でもなかった。


 だが、吐き出した瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。

 学は気づいた。

 この声は、ウマ男の声ではない。

 支援員の声でもない。


 昔、何度も失敗して、怒られて、縮こまっていった“あの頃の自分”の声だ。

 (間違えるな)

 (嫌われるぞ)

 その声に従って生きてきた。

 間違えないように、慎重に生きる術を教えてくれた声でもあったその声に守られてきた部分もある。

 だが、今は違う。


 学は、ゆっくりと空を見上げた。

 冷たい風のせいか、それとも胸の奥の痛みのせいか街灯の光が滲んで見える。

 「……俺は、もう逃げない」

 その言葉は、誰にも聞こえないほど小さかった。

 だが、確かに学自身には届いていた。

 胸の奥の“敵”が、少しだけ静かになった。


 ■翌朝

 翌朝、学はいつもより少し早く事務所に着いた。

 まだ誰もいない作業室で、名札をそっと整えた。

 昨日のウマ男の言葉を思い出したわけではない。

 ただ、自分のために整えたかった。


 その時、扉が開いた。

 「……学さん、おはようございます」

 S班のコトゲだった。

 学は振り返り、自然に笑った。

 「おはよう。体調どう?」

 コトゲは少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに笑った。

 「いいです」

 その返事を聞いた瞬間、学は胸の奥で何かが変わったのを感じた。


 昨日までの学は、“怒られないために”“嫌われないために”“間違えないために”

行動していた。


 だが今は違う。“誰かとつながるために”“誰かを支える為に”“自分を守る為に”行動している。


 内なる敵はまだ消えていない。

 だが、もう支配はされない。


 学は、胸の奥で小さく呟いた。

 ――今日も、やってみよう。

 胸の奥の敵はまだそこにいる。

 だが、もう歩みを止める理由にはならなかった。


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