第3話 活動の障害
■心の中の敵
学は、5つの挨拶が上手くいくには、自分が正しいと思うことを伝えていくしかないと考えていた。
だが、その“正しい”いって、何なのか? 又は、何が間違いなのか、学はいつも手探りの中にいた。
学の頭の中には、さまざまな情報が入り込んでいて、それを元に様子を見ながら他者へ働きかけている。
そのため、選択が現実と合わず、間違うことも多い。
上手くいくと嬉しいが、結構、間違うことの方が多かった。
やがて、声掛けが上手くいき始めると、それに嫉妬する人たちは、一定数いる。
■ウマ男の敵意
例えば、競馬好きのウマ男は、何かと学に絡んでくる。
「マスク……」
そう言って、学の鼻マスクを注意する。
他の人達にも、重箱の隅をつつくようなことを言って、周りの怒りを買っていた。
どこかで聞いたことがある。
――頭の空の奴ほど、カラン、コロンと大きな音がする。
コトゲに手本を見せないといけないから、学は「すみません」と軽く謝った。
ウマ男は、学が軽く頭を下げたのを見て、満足したように鼻を鳴らした。
だが、その目の奥には、学に向けられた敵意というより、どこか自分自身への苛立ちのような影があった。
学はその影に気づきながらも、深入りはしなかった。
――ここで反論しても、何も生まれない。
そう判断したからだ。正しさを証明するより、場を荒らさない方が大事な時もある。
しかし胸の奥では、別の声が小さく鳴っていた。
(……なんで、俺ばっかり)
その声こそが、学の“心の中の敵”だった。
■心の中の敵2
ウマ男の言葉よりも、ずっと鋭く、ずっと深く刺さる敵。
自分を責める癖。
間違いを恐れる癖。
そして、誰かの怒りを買わないように、先回りして縮こまる癖。
学はふと視線を落とした。
床の模様が、やけに複雑に見える。
その模様の中に、自分の弱さが滲んでいるような気がした。
■コトゲの視線
だが、コトゲがこちらを見ていた。
学の一挙手一投足を真似しようとする、まっすぐな若い目だ。
――だから、折れられない。
学は胸の奥で小さく息を整えた。
弱さを隠すためではなく、弱さを抱えたまま立つために。
「よし、次に行こうか」
学がそう言うと、コトゲは安心したように頷いた。
その頷きが、学の中の“敵”を、ほんの少しだけ静かにさせた。
■ウマ男、再び
昼下がりの作業室。
学がコトゲに道具の使い方を教えていると、背後からあの独特の足音が近づいてきた。
カツ、カツ、と無駄に大きい足音で。
「おい、学」
ウマ男の声は、呼びかけというより呼びつけに近い。
学は振り返り、表情を整えた。
「はい、どうしました」
ウマ男は、学の胸元を指さした。
「それ、ちゃんとやれよ。名札、曲がってんぞ」
名札は、ほんの数ミリ傾いているだけだった。
だが、ウマ男はそれを“重大な欠陥”のように扱う。
「お前、そういうとこだよ。だらしねぇのは」
コトゲが、びくりと肩を震わせた。
学は胸の奥に小さな波が立つのを感じた。
(……またか)
名札ひとつで、ここまで言う必要があるのか。
だが、反論すれば場が荒れる。
そして、コトゲの前でそれを見せたくない。
学は静かに名札を直した。
「すみません。気をつけるよ」
ウマ男は満足げに鼻を鳴らした。
だが、その目の奥には、やはりあの影――
自分自身への苛立ちを、他人にぶつけているだけの影が揺れていた。
■心の中の敵3
ウマ男が去ったあと、学の胸の奥で、また別の声が囁いた。
(……お前が悪いんじゃないのか)
(また間違えたんじゃないのか)
その声は、ウマ男よりも冷たく、正確に急所を突いてくる。
学は深く息を吸った。
――負けるな。
これは、外の敵じゃない。自分の中の、古い傷だ。
■コトゲの一言
「……学さん」
コトゲが、おそるおそる声をかけてきた。
学は、できるだけ柔らかい表情で振り向いた。
「大丈夫だよ。続けよう」
その一言に、コトゲはほっと息をついた。
その安堵が、学の胸の奥の“敵”を、また少しだけ静かにさせた。
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