鏡餅、ran away
柴野日向(ふあ)
第1話
電車の振動と足元から吹きあがる暖房の温もりに、いつの間にか寝入ってしまった。はっと目を覚ますと、自宅の最寄りまであと二駅の駅名がアナウンスされた。寝過ごさなかったことにほっとしつつ車内を見渡し、そのがらんどうさにため息が出る。普段は帰宅途中の会社員でごった返す電車の中は、明らかに空席の方が多く目につき、数少ない乗客は疲れ切った顔でシートに沈み込んでいる。大晦日の夜まで働かざるを得ない彼らへ、勝手に親近感と虚しさを覚えていると、ようやく電車は自宅最寄りのホームに滑り込んだ。
ちらほらと雪が舞い、キンと冷えた空気が頬をぴりぴり刺激する。手袋を忘れた手はカサカサで、容赦ない寒風がコートをはためかせた。
「さみぃ……」
かじかむ指に挟んだICカードで改札を抜け、歩いて十分。三階建てアパートの一階、六畳のワンルームに、大学を卒業してから四年間住み続けている。火の気のない冷え切った室内は真っ暗で、普段は気楽な独り暮らしが、この時ばかりは孤独感を刺激した。腕時計の針は既に十一時をまわっている。
手を洗い鞄とコートを投げ捨て、部屋のエアコンを入れた。古いそれがごうごうとやかましく温風を吐き出し始め、ひと息つく。せめて年越しらしくと買ってきたカップそばにお湯を入れ、三分待ちながら、部屋の隅の段ボールに目をやった。先日、地元の母親から送られてきた荷物は、片付けを面倒くさがってそのままだ。覗き込むと、レトルトのパックや袋菓子に紛れて、辛うじて正月らしいものが顔を出している。
頭に小ぶりのみかんを乗せた小さな鏡餅。手紙には、部屋の隅にでも飾ってくれと書いてあった。母親は俺とは異なり、こんなところが勤勉で、五月にはベランダにこいのぼりを立てかけ、七月には笹を飾り、もちろん正月には初詣も欠かさない。だが俺には行事の準備をするほどの真面目さはなく、これも押し付けられた気分がして、多忙を理由に放置したままだ。しばらく電話もしていない。大晦日まで働く社畜なんだから、それぐらい許してくれよ。
キッチンタイマーが鳴り、いそいそと炬燵でカップそばを頬張りつつ、テレビを眺める。せめて年越しするまでは起きていようか、帰りに酒でも買って帰ればよかったな。
ぼんやり思っていると、かさかさと小さな音が聞こえた。俺はゴキブリが大嫌いだ。だが、目を向けた先に黒光りする虫の体はなく、ただ段ボールの脇に鏡餅と蜜柑が転がっていた。いつの間にか、それを包んでいたビニールも剥がれている。
どういうわけだと訝しむ前に、ひっくり返っていた鏡餅はぴょこんと立ち上がった。細く白い紐のような手足が生え、それで蜜柑を拾って頭に載せている。それで俺を見上げると、たたっと走り出した。
俺は吃驚し、声を上げた。立ち上がりかけて炬燵で膝を打ち、カップからそばの汁が天板に零れる。鏡餅はその場をぐるぐると周り、廊下の方へ駆け出した。
「どういうことだよ……」
実は既に俺は酔っていて、夢を見ているんだろうか。こわごわ炬燵を這い出して、恐る恐る向こうをのぞきこんだ。鏡餅はドアに体当たりをしている。それが開かないことを知ると、今度はこちらに戻ってきた。
思わず悲鳴を上げて避ける俺の脇を走りぬけ、換気のため開けていた窓の隙間からベランダへ飛び出し、あっという間に柵の間を抜けて外へ逃げていった。
ぽかんとへたり込んだまま、俺はしばらく鏡餅の去った闇を見つめていた。バラエティ番組の喧騒がやけに遠く、火の用心の拍子木の音が更にその向こうにある。鏡餅が逃げた。呆然としてベランダに出て、鏡餅の逃げた方に目を凝らす。粉雪の舞う道の上、街灯の下に、やつはちょこんと座っていた。
「……取りあえず、回収するか」
混乱しながら、とにかく火の用心の人たちに、あれを見つかってはならない気がした。あの動く鏡餅の所有者だと知られれば、どんな噂を立てられるか分からない。このまま知らんぷりをしても、あの餅が何か悪さをして、俺や母親の指紋が見つかれば厄介だ。そんな非現実的な未来に思考を躍らせるほど、俺の頭はパニックで渦巻いている。
脱ぎ散らかしたコートを着て外に出る。鏡餅はまだそこにちんまりと正座していた。
だが、俺が近づくと立ち上がり、また脱兎の如く走り出した。
「なんでだよ!」
慌てて追いかけるも、餅のくせに足が速い。雪に濡れた道で滑りコケそうになる俺を嘲笑うかの如く、時にはスケートの様に滑っていく。中々のランナーだ。餅のくせに。やけになって追いかける俺の鼻先をぴょんぴょん飛び跳ね、一目散に走る鏡餅。
こんな形で年越しだなんて。日頃の運動不足から息を弾ませつつ、腕時計に目をやった。十一時五十九分。もうじき新しい年になる。
そこで針が進んでいないことに気が付いた。五十九秒の位置で、秒針がかくかくと振動している。あと一秒が進まない。こんな時に故障しているのか。
コートのポケットからスマホを取り出したが、こちらも十一時五十九分でフリーズしていた。背筋が冷えるのは気温のためではないだろう。餅を追って辿り着いた駅前でも、電光掲示板は今年最後の一分で止まっている。しかし周りの人間は誰一人慌ても騒ぎもせず、淡々と歩き、騒ぎ、車を運転している。
もしや、あの鏡餅のせいなのか。あれが時を2025年で止めていやがるのか。
なんとしても捕まえなければ。再び走り出す俺と餅。さっきくぐったばかりの改札を抜け、やってきた電車に飛び乗り、やっと俺は逃げ場を失ったそいつを両腕で抑え込んだ。暴れるかと思いきや、すっと手足を収納し、すっかり動かなくなる。席に並ぶカップルがこちらを見るのに気持ち悪い愛想笑いを浮かべ、鏡餅を抱えた俺はすごすごと隣の車両に移動した。
アナウンスでようやく気が付いた。これは地元へ向かう急行列車だ。
席について腕時計を見るが、まだ針は進まない。おかしい、餅はすでに俺に捕まり大人しくしている。何が俺を2025年の中に閉じ込めているんだ。
「おい、一体何が目的なんだ」
コートの中に囁いたが、餅はぴくりとも動かない。もしかしてこいつが原因ではないのだろうか。困惑している間に、アナウンスは俺の地元の駅名を告げた。
部屋に引き返す最終電車は去っている。仕方なく、俺は久方ぶりの道を歩いて実家へと向かった。わけの分からない夜に、寒空の下で凍えるだなんてたまらない。
古い実家の前で、鍵を持っていないことに気が付く。チャイムを押したが返事はなく、何だか様子がおかしい。明り一つ漏れておらず、家の中は森閑としている。母親はこの日だけは紅白歌合戦を観つつ年を越してから寝るはずだ。今年の初めに、俺の父親はがんで亡くなった。母は結婚以来初めての一人きりの年越しに落ち込んでいるのだろうか。
手をかけると、引き戸はがらりと開いた。母が鍵をかけ忘れるなんて、初めてのことだ。足を踏み入れ、ただいまと声を掛けるが、ことりとも音はしない。家の空気は寒々と冷え切っている。
胸騒ぎに押され、靴を脱ぎ棄てて廊下に上がった。暗い居間には誰もいない。勢い込んで奥の襖を開くと、そこに敷かれた布団に母は力なく横たわっていた。
救急車を呼び、風邪をこじらせ肺炎を起こしかけていた母親を病院に送っている内に年は明けた。病室の窓から見る初日の出は、一際眩しかった。
「あんたに迷惑かけるわけにいかんと思ってね」
何を言ってるんだと俺は怒ったが、母のしょげかえる姿を見るとそれ以上の文句など言えなった。とにもかくにも、間に合ってよかった。
「ところで、なんで急にうちに帰って来たんや」
俺は母親に全てを話して、コートの中に入れたままの鏡餅を見せた。まさか鏡餅が走っただなんて、素っ頓狂な話を信じるとは思えない。
「鏡餅には、
しかし母は疑うことなく嬉しそうに頷いた。
「きっと、見かねて助けを呼んでくれたんやね」
日頃感謝の気持ちを忘れない母を、年神様が俺を呼ぶことで守ってくれた。なんとも奇妙な話だが、実際に走る鏡餅を見た俺に否定する余地はない。神様は2025年に俺を閉じ込め、母を救い、俺をも救ってくれた。あのまま母が死んでいれば、俺は一生後悔に苛まれることになっただろう。
退院の後、十一日には、鏡餅を開いておしるこを作ろう。いや、ぜんざいの方がいいだろうか。鏡開きで餅を食うのは、神様の力をいただくことだという。
「おしることぜんざい、どっちがいい。俺、作るよ」
「あんたが作ってくれるなら、どっちも食べたいわ」
すっかり元気になった母は、笑って神様の頭をそっと撫でた。
鏡餅、ran away 柴野日向(ふあ) @minmin
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます