8 終焉の始まり、そして真実の再会

『鳳凰』創業者の娘、里中陽子の言葉は、陣の心臓を鷲掴みにした。それは彼の魂を救う唯一の方法であり、一花を取り戻すための、最初で最後の賭けだった。


「終わらせる……どうやって?」


 陣は声が震えるのを止められなかった。彼のすべてだった、この偽りの成功を、どうすればいいというのか。

 陽子は彼の絶望を静かに受け止めた。


「父のレシピには単なる味の配合だけでなく、『食の哲学』が込められていました。父は味を金儲けの道具にすることを最も嫌いました。あなたが今、世界で展開しているラーメンは、もうあのレシピの魂を持っていません。あなたがその魂を失ったことを、世界に証明するのです」


「証明?」


「ええ。あなたは今、史上最大のフードイベント、『世界料理サミット』への参加を控えていますね。そこで、あなたの『至高の濃厚ラーメン』を発表する予定だと聞きました」


 世界料理サミット。それは世界グルメフェスティバルを遥かに凌ぐ、食の権威たちが集まる、文字通りの最終舞台だった。


「その舞台で、あなたが今作っている、魂を失ったラーメンと、かつて東中野で、一花さんが『神のレシピ』だと評した本物のラーメンを、同時に提供するのです」


 陣は愕然とした。それは彼が「天才」ではないこと、そして、彼が世界を欺いてきたことを、白日の下に晒す行為に他ならない。


「そんなことをしたら俺は……すべてを失います」

「失うのではありません、八神さん。あなたが手に入れた偽りのすべてを、真実の愛と交換する行為です」


 陽子は優しく諭した。


「あなたがすべてを失った時、初めて一花さんは、あなたが本当に大切なものを選んだと信じるでしょう」


 陣は膝から崩れ落ちそうになった。名声、富、そして彼を支えてきた巨大な企業からの信頼。それらすべてを、彼はこの最後の舞台で、自らの手で破壊しなければならない。


「わかりました。里中さん。俺は、やります」


 陣は絞り出すような声で言った。彼の目は、もう過去の傲慢さを帯びていなかった。そこにあるのは、懺悔と、一つの真実への、純粋な希求だけだった。


「ありがとうございます」


 陽子は微笑んだ。


「私も、あなたの最後の戦いに協力させて頂きます。父のレシピの真の魂を、世界に残すために」


 陣は里中の協力を得て、すぐさまサミットでの計画を練り始めた。

 彼の最初の行動は、一花の捜索だった。彼女に彼の最後の舞台を見届けてもらう必要がある。


 陣は一花の親友や同僚、一花がよく行く場所を、片っ端から尋ねて回った。しかし彼女の居場所を知る者はいない。彼女は、すべてを断ち切るように、姿を消していた。


(一花。俺は、もう逃げない。お前を裏切った傲慢な俺を、今度こそ終わらせるから)


 彼は一花へのメッセージを留守番電話に残すことしかできなかった。


「サミットを見に来てくれ。そこで俺が話す、お前が一番聞きたかった真実を聞いてほしい」


 そして彼は東中野の裏厨房に戻り、小野と三人で共同作業していた頃と同じ、ストイックなスープ作りに没頭した。


 里中が監視する中、陣はコストや効率を一切無視し、最高の素材だけを使って、純粋な「鳳凰のレシピ」を再現した。寸胴鍋から立ち上る湯気は、かつて一花が「魂の味」だと評した、あの深い、芳醇な香りを放っていた。


「素晴らしいです、八神さん。このスープには、あなたの後悔と、贖罪の決意が詰まっています。これこそが、味の哲学です」


 里中は感動したように言った。

 しかし陣はサミットの運営委員会に、もう一つの依頼をしていた。それは、彼のグローバルチェーンで提供している「大量生産型ラーメン」も、同時にサミットで提供することだ。


 サミット当日。

 陣は報道陣のフラッシュを浴びながら、会場に到着した。彼の顔は以前のような傲慢な笑みではなく、静かで、張り詰めた緊張感に覆われていた。


 彼は自分のブースの前に立つと、まず、会場の隅々まで一花の姿を探した。しかし一花の姿はどこにもない。彼女は彼のメッセージを受け取っていないのだろうか?


「……一花……」


 陣は絶望を感じた。彼がすべてを投げ出して行う、この最後の告白を、彼女に見届けてもらえなければ、なんの意味もない。


「八神シェフ! いよいよサミットですね! 今回は、どのような『創造性』を披露してくださるのでしょうか?」


 報道陣がマイクを突きつける。

 陣は深呼吸し、静かに答えた。


「私が今日、ここで披露するのは『創造性』ではありません。これは『真実』です。そして私自身の『終焉』の始まりです」


 彼の言葉は会場に大きな動揺を呼んだ。

 そしてサミットの開始ブザーが鳴り響いた。

 瞬間、会場の入り口が開き、一人の女性が静かに、しかし確かな足取りで入ってきた。彼女は人波を縫って、陣のブースへと向かってくる。


 それはニューヨークで彼の傲慢さに絶望し、彼の前から姿を消した一花だった。

 彼女の顔は憔悴していたが、その瞳には彼への複雑な感情と、この舞台になにかが起きるという予感が混じり合っていた。


「陣」

「一花!」


 陣は彼女の姿に安堵し、そして決意を新たにした。彼の最後の告白は、今、彼女の目の前で行われる。


 二人の視線が交錯した瞬間、陣は、自分の前に置かれた二つの寸胴鍋を見つめた。一つは金にまみれた偽りのスープ。もう一つは愛と贖罪によって蘇った真実のスープ。


 彼は人生のすべてを賭けた最後の選択を、今、この舞台で行う。

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