7 孤独な玉座と、偽りの崩壊

 一花がニューヨークの店を飛び出してから三週間。陣は一花の存在しない世界で、かつてないほどの孤独を抱えながら、成功の頂点に立ち続けていた。


 一花は陣からの電話やメッセージに一切応じなかった。彼の唯一の理解者であり、心の支えであった彼女の不在は、彼の精神を深く蝕んでいった。


 しかし立ち止まるわけにはいかなかった。世界的なフランチャイズの展開は止まらない。ニューヨーク、ロンドン、ドバイ、次々と「かがみ亭」の海外支店がオープンし、陣は「世界を股にかける美食界の帝王」として祭り上げられていった。


 彼は一花が指摘した品質の低下を無視し続けた。効率化と称して、さらに安価な食材と、大量の化学調味料を投入。提供されるラーメンは、かつての「鳳凰の遺産」が持っていた「魂」とはかけ離れた、ただの濃い味のインスタントな商品へと成り下がっていた。


 陣は自分が生み出しているものが「偽物」であることを知っていた。しかし金と名声という麻薬は、その罪悪感を覆い隠した。


 そんな中、異変が起こり始めた。

 まず、一花と親交の深かった日本のグルメ評論家たちが、陣のラーメンを批判し始めた。


「ニューヨークで食した『かがみ亭』のラーメンには、あの世界フェスティバルで感じた感動がない。まるで偉大な芸術作品の粗悪なコピーだ」

「彼の成功は、すでに食の探求から離れ、単なる資本の論理に支配されている」


 一花が意図的に情報を流したのか、あるいは批評家たちが本質を見抜いたのか、定かではない。だが、一花の離脱と時を同じくして、日本の批評界は一斉に陣への批判を強めた。


 さらに悪いことに、海外の批評家たちも、その劣化に気づき始めた。


「当初の評価は過大だったのではないか? このラーメンは、確かに濃厚だが、複雑さや奥行きが欠けている。単調で、すぐに飽きがくる味だ」


 そして彼の成功の最大の証人であったはずの、世界フェスティバルの主催者までが、陣に対して懸念を表明した。


「八神氏の料理は、あのフェスでの発表から、本質的な部分で変化している。我々は彼の『創作性』に敬意を表したが、彼が今提供しているのは、もはや創造性ではない」


 陣の作り上げた「偽りの城」に、亀裂が入り始めたのだ。


 絶望的な状況下で、陣は再び小野に連絡を取ろうとした。しかし電話番号は使われておらず、メールも返信がない。


 彼がかつての「かがみ亭」の裏厨房に戻ったとき、小野が使っていた場所は、完全に片付けられていた。そこには一枚のメモが残されていた。


 八神さんへ

 あなたが、あのレシピの魂を売り渡した今、私の役割は終わりました。

 あなたが最後に守るべきは、「鳳凰の味」の純粋さです。

 もし本当に大切なものを取り戻したいのなら、そのラーメンが生まれた場所、あなたが初めて「究極の味」を口にした場所へ行きなさい。そこには、すべてを忘れていない人がいるかもしれません。

 どうか、あなたの魂を救ってください。

 小野


 そのメモは、小野の失望と、陣への最後の希望が込められた、別れの言葉だった。

 陣は小野の言った「あなたが初めて『究極の味』を口にした場所」という言葉を反芻した。


 それは幼い頃、祖父に連れられて行った、あの伝説のラーメン店「鳳凰」の本店跡地だ。


 彼は自分の罪と向き合うため、そして、一花を取り戻すためのヒントを探すため、すべてのスケジュールをキャンセルし、車を走らせた。

「鳳凰」の本店は、郊外の寂れたショッピングモールの一角にあった。店は閉店から何年も経ち、今は別の安価なファストフード店に変わっていた。


 陣は、その店の中に立ち、壁や床を見つめた。人々はハンバーガーを食べている。誰も「鳳凰」の存在を知らない。この場所で、かつて日本中を感動させた最高のラーメンが生まれていたことを、誰も覚えていない。


「この世界は、本当に狂っている……」


 陣が絶望に打ちひしがれ、その場を立ち去ろうとした、その時だった。


 店の片隅で、一人の初老の女性が、静かにラーメンを食べていることに気づいた。彼女は、目の前のファストフードのラーメンではなく、まるで、存在しない別の料理を食べているかのように、優雅に、そして真剣に、スープを口に運んでいる。


 その女性は、彼に気づき、静かに微笑んだ。


「おや、あなた……八神陣さんですね」

「あ、はい……」

「あなたが、あの『究極の濃厚ラーメン』のシェフだと、テレビで拝見しました。素晴らしい才能です」


 彼女の言葉は、ほかの批評家のような辛辣さはなく、純粋な賛辞のように聞こえた。


「ありがとうございます。ですが、あなたのような食に詳しい方に、この店のラーメンを褒められても……」

「この店のラーメンを褒めたのではありませんよ」


 女性は優しく言った。


「私が今、脳内で食べているのは、『鳳凰』のラーメンです。この場所に来ると、なぜか、あの味の記憶が鮮明に蘇るのです」


 陣の全身に、再び電流が走った。


「あなたも……あの停電の日のことを?」

「ええ。そして、あの味が消えたことも。あなたと同じように、この世界に、あのラーメンの味がないことが、私には耐えられませんでした」


 女性は静かに自分の前に置かれたラーメンを指さした。


「ですが、私は知っています。あなたの店の最初のラーメンは、完璧でした。あれこそが、『鳳凰』の味、そのものでした」


 女性は陣の目をまっすぐに見つめた。彼女の目は、一花や小野と同じ、真実を知る孤独な光を宿していた。


「八神さん。あなたのラーメンは、金と効率のために、その魂を失いました。ですが、あなたの最初のラーメンは、本当に世界を変える力を持っていた。あのラーメンの真の創作者が、それを望んでいたからです」


「真の創作者……?」

「ええ。あのレシピを残した、あなたの祖父と、『鳳凰』の創業者です」


 女性はそっと自分の胸元から、古いペンダントを取り出した。それはラーメンの丼を象った、小さな飾りだった。


「私、『鳳凰』の創業者の娘なんです」


 陣は愕然とした。目の前の女性は、この世界から消えた、偉大なレシピの真の継承者なのだ。


「私の父は、晩年、こう言っていました。『もし、この味が世界から消えるようなことがあっても、唯一、八神家だけには、レシピの魂を残しておきたい。あそこには私の最高の友人の孫がいるからだ』と」


 女性は優しく微笑んだ。


「八神さん。あなたは、このレシピを守る使命を負っていた。ですが、今、あなたはそれを汚している。このままでは、あの停電の夜と同じように、あなたの人生から、本当に大切なもの、一花さんの愛が、二度と戻らない形で消えてしまいます」


 陣の頭の中で、小野の予言と、一花の去り際の表情が交錯した。彼は、自分の傲慢さが招いた結果を、逃れることのできない形で突きつけられた。


「私は……どうすればいいんですか……」


 絶望の淵に立たされた陣に、女性は静かに告げた。


「あなたがすべきことは一つ。世界に嘘を吐き、巨万の富を得た『天才・八神陣』を、あなた自身の手で終わらせることです」

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