6 名声の罠、そして決裂の予感
世界グルメフェスティバルでの成功は、陣を文字通り、一夜にして世界のトップシェフの座に押し上げた。かがみ亭の「至高の濃厚ラーメン」は、「アジア料理の再発見」「秘境の究極の味」として世界中で報道され、彼の名は一躍、時の人となった。
帰国した陣を待ち受けていたのは、以前とは比較にならない規模のオファーの山だった。
世界的な食品企業のトップとの商談。ハリウッドセレブからのプライベートシェフの依頼。さらには自身の名を冠した高級レストランを世界各地に展開するという、巨額の投資話まで舞い込んできた。
陣は成功の渦の中で、以前抱えていた罪悪感を忘れかけていた。彼の頭を占めていたのは、「鳳凰のレシピ」を最大限に活用し、どこまで名を上げるかという、尽きることのない野心だった。
「陣、すごいわ! この投資話に乗れば、あなたは世界中の食の基準を変える存在になれる!」
一花もまた、陣の成功に興奮していた。彼女は陣の秘密を知った上で、彼を世界へ送り出す「共犯者」としての役割を完璧に果たしていた。しかし一花の瞳には、以前のような純粋な喜びとは違う、どこか警戒の色が混じり始めていた。
「ああ、もちろんだ。この味を、世界中に広めるのが俺の使命だ」
陣は高揚した声で答えた。
「一花、俺はもう、東中野の寂れた定食屋の店主じゃない。俺は世界を変えるシェフだ!」
その言葉に、一花はふと表情を曇らせた。
「そうね。でも忘れないで。あなたの原点は、東中野のかがみ亭よ。そして、あなたを支えているのは、その味の真の価値を知っている、私と小野さんの存在よ」
一花の静かな釘刺しに、陣はわずかに苛立ちを覚えた。
「わかっている。うるさいな」
陣の態度は、成功が大きくなるにつれ、傲慢になっていった。彼は自分の成功が、あくまで「鳳凰」の借り物であることを忘れ、自らの「才能」によるものだと錯覚し始めていた。
その夜、陣は小野から呼び出された。場所は、秘密の作業場となっている、東中野のかがみ亭の裏厨房だった。
「八神さん。今日のニュース、拝見しました。素晴らしい成功です」
小野は陣の成功を心から喜んでいるように見えた。だが、その声には、どこか寂しさが混じっていた。
「小野さんのおかげです。あなたがいなければ、この味の安定はありえなかった」
「そう言ってくださると光栄です。ですが、一つだけ、懸念があります」
小野は寸胴鍋の前に立ち、静かに語り始めた。
「私は、この味を『人類の遺産』として守るために協力しました。しかしあなたが受け入れている投資やオファーは、そのレシピを『巨万の富を生む商品』に変えようとしているように見えます」
陣は小野の言葉を批判と受け取り反発した。
「なにが悪いんですか? これだけの味だ。世界中に広めるには金が必要だ。世界を変えるには資本が必要だ! あなたはこのラーメンを一生東中野の裏で、ひっそり作り続けていたいとでも言うんですか?」
小野は首を振った。
「そうではありません。私が恐れているのは、あなたがこのレシピを『商品』に変えることで、その魂を失うことです。『鳳凰』のレシピは、創業者と私の師が、純粋な探求心から生み出した、哲学なのです。それを金儲けの道具にすれば、世界から二度と戻らない、本当の『消失』が起こる」
小野は真剣な眼差しで陣を見つめた。
「八神さん。あなたは、このレシピの『管理者』であって『所有者』ではない。そのことを忘れないでください。もしあなたがこの哲学を金で汚せば、あなたにとって本当に大切なものが、この世界から、二度と戻らない形で消えてしまうかもしれませんよ」
それは陣の心に突き刺さる、予言のような言葉だった。彼にとって「本当に大切なもの」とは一花だ。彼の成功の土台であり、彼の罪を知る共犯者。
(一花を失う?)
陣はその可能性に恐怖した。しかし目の前に積み上げられた巨額の富と、世界的な名声という誘惑は、その恐怖を凌駕していた。
「あなたの言いたいことは分かります、小野さん。ですが、私は自分のやり方でこの味を広めます。あなたの協力はありがたいが……私の経営方針に口出しはしないでください」
陣の言葉は小野への明確な決別宣言だった。
小野は静かに溜め息を吐き一歩下がった。
「わかりました。私の役割は、この味の再現技術を提供すること。それ以上は、もう口を出しません。ただし、一つだけ約束してください。世界フェスでのあの味、あれが、あなたが守るべきレシピの魂です。それだけは金儲けのために変えないでください」
「約束します」
陣は力強く答えた。
小野は寂しそうに一礼し、裏厨房から去っていった。その背中は、まるで、偉大な遺産を見送る守人のようだった。
小野を遠ざけた陣は、本格的に世界展開に乗り出した。彼が最初に手を付けたのは、大規模なフランチャイズ化だ。
「この究極の味を、世界中の人々に、手軽に提供する!」
彼はレシピを大量生産向けにアレンジし始めた。具材のコストを下げ、調理時間を短縮。小野の助言を無視し、風味を増すために化学調味料の比率を高めた。
彼は自らに言い聞かせた。
「これは世界展開のために必要な合理化だ」
数週間後、陣がプロデュースした最初のグローバル店舗がニューヨークにオープンした。一花も立ち上げに同行したが、彼女は静かに、陣のやっていることに異を唱え始めた。
「陣。あのスープは、あの味じゃないわ」
ニューヨークの一号店で提供されたラーメンを一口啜り、一花は顔を顰めた。
「確かに美味しい。でも、あの世界フェスで人々を感動させた『深み』がない。あの魂の重みが、完全に消えているわ」
「馬鹿なことを言うな! 小野さんのデータに基づき最適化したんだ。このほうが誰にでも受け入れやすい味なんだよ!」
陣は一花の「魂」という言葉に耳を貸さなかった。
「誰にでも受け入れやすい? 違うわ。あなたは、この味を安く、大量に、効率よく売るための商品に変えたのよ! このスープには、あなたの野心と傲慢さしか詰まっていないわ!」
一花の怒りが爆発した。彼女は陣の成功を信じてきたが、彼が「鳳凰の遺産」を金儲けの道具に貶めることは許せなかった。それは彼が守るべき魂を、彼自身の手で殺している行為に他ならない。
「黙れ! お前は俺の成功に嫉妬しているだけだ!」
陣は一花の言葉の正しさが痛いほどわかっていたからこそ、最も残酷な言葉で彼女を攻撃した。
その言葉を聞いた一花は、全身から血の気が引くのを感じた。彼女は静かに立ち上がり、陣に背を向けた。
「私は、あなたの成功を信じた。でも、魂を売ったあなたを、もう支えられない」
一花は陣が止める間もなく、ニューヨークの店舗を飛び出した。
陣は成功の絶頂で、彼の「本当に大切なもの」である一花を、彼の傲慢さによって、自らの手で失ってしまった。小野の予言が現実となった瞬間だった。
彼の前に輝かしい未来が広がっている。だが、振り返れば、彼の横には誰もいなかった。彼の味を最初に信じた一花も、彼の秘密を共有した小野も、すべて彼の手によって遠ざけられた。
陣の孤独は世界的な名声という巨大な器の中で、極限まで膨れ上がっていた。
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