5 共犯者の微笑みと、運命の舞台

 世界グルメフェスティバルの開催地、横浜みなとみらい。巨大なイベントホールが、世界中の報道陣とトップシェフたちの熱気に包まれていた。


「陣、大丈夫よ。あなたは世界一よ」


 一花は陣の隣で、落ち着いた声で話しかける。彼女の表情は、以前のような無邪気な熱狂ではなく、深い理解と静かな覚悟を帯びていた。あの日の朝以来、一花の陣を見る目は変わった。そこには以前あった「天才を信じるファン」の熱狂ではなく、「秘密を共有する共犯者」の静かな愛情と、彼を守るという強い意志が宿っていた。


 陣はその変化に気づいていたが、一花がなぜそうなのか、その理由を知る由もなかった。彼は一花の優しさが、フェス前の極度の緊張とプレッシャーからくるものだと解釈していた。


「ああ……分かっている。絶対に成功させる」


 陣の言葉には、決意と同時に、底知れない恐怖が滲んでいた。このラーメンは彼の創造物ではない。一歩足を踏み間違えれば、彼のキャリアだけでなく、彼の人生そのものが崩壊する。彼は自分が巨大な嘘の上に立っていることを、骨の髄まで理解していた。


「心配しないで。あなたが一人じゃないってこと、忘れないでね」


 一花は彼の手にそっと触れた。

 陣は彼女の暖かい手の感触に、少しだけ心が軽くなるのを感じた。


 フェスティバル当日。

 かがみ亭ブースの裏では、陣と小野が最後の準備を進めていた。小野はあくまで陣の「技術顧問」という立場で、照明の当たらない場所で淡々と作業をこなしている。


「八神さん。スープの仕上がりは完璧です。あとはあなたの魂を乗せて提供するだけです」


 小野は静かに言った。


「魂、ですか……」


 陣は自分の魂が、このラーメンに乗っているのか分からなかった。乗っているのは、祖父の愛と、鳳凰創業者の情熱。そして世界から忘れ去られた食の歴史だ。彼の魂は、ただその遺産を世に送り出す「媒体」でしかないように感じていた。


 その時、一花が裏口から入ってきた。


「小野さん、少しよろしいでしょうか?」


 一花は小野に視線を送り、静かにそう尋ねた。陣は二人の間に緊張が走るのを感じ、慌てて口を開いた。


「一花! 小野さんはただの……」

「陣、大丈夫。少し、ご挨拶を」


 一花は陣を制し、小野に向き直った。

 小野は一花の目の奥に、すべてを悟った者の静かな強さを感じ取った。彼は陣の秘密を知る、唯一の共犯者だ。一花は彼の存在が陣の嘘の核心であることを理解していた。


「一花さんとお呼びしてよろしいでしょうか? 八神さんの影の協力者である、小野と申します」


 小野は深々と頭を下げた。


「一花です。陣の公私に渡るパートナーです」


 一花は敢えて「パートナー」という言葉を選んだ。


「小野さん。このラーメンのルーツについて、あなたはご存知なのですね?」


 小野は一切の動揺を見せず静かに答えた。


「ええ。すべては、あの晩に始まりました。八神さんは、この世界から失われた、偉大な味を守り抜いている。その孤独な役割を、私は微力ながらサポートさせて頂いています」


 一花は一瞬、目を閉じた。陣の孤独が目の前の小野によって証明されたのだ。


「ありがとうございます。彼の秘密と彼の心を守ってくださって」


 一花は小野に深々と頭を下げた。


「私は陣を世界一にしたい。そのために、この秘密は、私と、あなたと、陣の三人だけのものにしなければなりません」


 一花のその言葉は、陣を「世界を欺く偽りの天才」にするという、共犯者としての強固な決意を示していた。


「一花……」


 陣は二人の間に交わされた静かな共謀に言葉を失った。

 一花は陣に向き直り、静かに言った。


「陣。あなたは、この味を世界に届ける使命を負っている。それは誰もが知らない、あなただけの物語。私たちが、この物語を完成させるのよ」


 彼女は陣のネクタイを直し、深呼吸を促した。その時、司会者による開会のブザーが鳴り響いた。


 フェスティバル会場は、熱狂に包まれていた。陣は「日本の秘密兵器」として最後に登場することになっていた。


 彼の前にはフランスの三ツ星シェフや、イタリアのミシュラン獲得シェフたちが、それぞれの究極の一皿を披露していた。どれも洗練され、技巧を凝らした、芸術品のような料理だ。


 陣は楽屋のモニターで彼らの様子を見ながら不安に襲われた。


「俺のラーメンは、ただのラーメンだ。彼らの芸術のような料理に勝てるはずがない」


 小野の助けで再現された味は完璧でも、所詮は「他人のレシピ」だ。創造性の勝負になった時、彼は無力だと感じた。


 その時、一花が彼の隣に立ち静かに囁いた。


「陣。あのラーメンのレシピは、もう『鳳凰』のものだけじゃないわ」

「どういう意味だ?」

「あのスープには、あなたの孤独と、絶望と、そして私を喜ばせたいという、あなたの愛がたっぷり詰まっている。あなたが一人で抱え込んできた重圧は、すべてあのスープの深みになっている。それは誰のレシピにも書かれていない、あなた自身の魂の味よ」


 一花は陣が隠していた秘密を知った上で、彼の料理を「彼自身の魂の味」だと断言したのだ。


 その言葉は陣の心を貫いた。彼はレシピを盗んだ罪悪感と、一花を裏切っているという恐怖に押しつぶされそうだったが、一花はすべてを受け入れた上で、このラーメンを彼のものだと肯定してくれた。


「……ありがとう、一花」


 陣は初めて心から、このラーメンは自分のものだと感じた。それは借りたレシピではなく、彼自身の人生と愛によって完成された味なのだと。


「さあ、行きましょう。世界が、あなたのラーメンを待っているわ」


 一花の言葉に押され、陣は静かにブースへと向かった。


「さあ、いよいよ本日のトリを飾るのは、日本代表! 若き天才、八神陣シェフです!」


 大歓声の中、陣はステージに上がった。彼の目の前には、世界中の報道陣、著名な食の批評家、そしてライバルのシェフたちがいる。


 彼は緊張で震える手を抑えながら、寸胴鍋の蓋を開けた。瞬時に、会場全体に、濃厚で芳醇なスープの香りが広がる。


 批評家たちは、その「ただのラーメン」に、一瞬戸惑いの表情を見せたが、その香りの深さに、すぐに興味を惹きつけられた。


 陣は一花の笑顔を思い浮かべながら最後の仕上げを始めた。彼の動きには、もう迷いはなかった。小野の科学と、一花の愛によって裏打ちされた、確かな自信が宿っている。


 提供された一杯を口にした、世界の食の権威たちの表情は驚愕に変わった。それは彼らがこれまで体験したことのない、原始的でありながら、同時に極限まで洗練された「旨味の暴力」だった。


「これは……まさか、こんな味が存在したとは……」

「ただのラーメンではない。これはアジアの食文化の、失われた頂点だ!」


 批評家たちは絶賛し、陣のラーメンは、瞬く間に「世界グルメフェスティバル」の最高の話題を掻っ攫った。

 スポットライトを浴びながら、陣は心の中で呟いた。


(世界よ。これが、鳳凰の味だ。そして、俺と一花、小野さんの、秘密の愛の結晶だ!)


 彼の成功は確固たるものとなった。だが、その成功の絶頂で、陣は自分を待ち受ける新たな試練に、まだ気づいていなかった。

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