4 探偵と、もう一人の記憶

 一花がホテルの打ち合わせから帰宅したのは深夜だった。疲労困憊していたが、彼女の頭の中は、陣の不可解な言動でいっぱいだった。


「古いノート……ね。そんなもの、彼が使っているのを見たことがない」


 陣は几帳面だ。料理のメモはすべて、年代順にファイリングされた真新しいルーズリーフに記録する。それが彼の料理への誠実さを示す証拠だと、一花は常々感じていた。にも関わらず「古いノート」と口を滑らせ、問い詰めるとあからさまに感情を爆発させた。


(彼が隠しているもの。それはあのラーメンのレシピのルーツに違いない)


 一花は陣の成功を純粋に信じ、喜び、献身的に支えてきた。だからこそ、彼の態度が彼女の心を深く傷つけた。しかしそれ以上に、評論家としてのプロ意識と、彼の幼馴染としての愛情が、彼女に「真実」の追求を促した。


 彼女はまず、陣が「神の啓示」があったと語った、あの大停電の日の出来事を調べ始めた。


 一花は自分の評論家ネットワークを駆使し、大停電の直後に発生した事象を、多角的に調査した。すぐに判明したのは、あの数秒間に、世界中で複数の「奇妙な消失」が報告されていたことだ。


「消えたもの……ね」


 彼女の目に留まったのは、SNSの片隅に残されていた、いくつかの奇妙な投稿だった。


「うちの親父、突然マリリン・モンローを知らないって言い出したんだけどボケたのか?」


「子供の頃から親しんでいた、あの国民的アニメの歌が、どのカラオケにも入ってない。誰も知らないって言うんだけど、私だけがおかしいの?」


 どれも単なる錯乱や勘違いとして処理されていたが、一花は直感した。


(消えたのは『鳳凰』だけじゃない。なにか世界規模で、人々の集合的な記憶から、偉大な文化や存在が、選り好みされて消えている?)


 もしそれが真実なら、陣の言う「神の啓示」は、単なる嘘ではないかもしれない。しかしその「啓示」が、彼自身の創作物でないことは確かだった。


 一花は陣の秘密を探るため、かがみ亭へと向かった。


 その頃、陣は小野と二人で、来る世界フェスに向けた最後の仕上げを行っていた。


「小野さんのおかげで完璧です。この味なら、世界を驚かせられる」


 陣は感謝を口にしたが、小野の表情はどこか暗い。


「喜んでいるのは、この味を残せることです。ですが八神さん……」


 小野は静かに陣に問いかけた。


「一花さん、最近、あなたのレシピの出どころを探っているようですね」

「な、なぜそれを?」

「私もあなたと同じように、この『秘密』を守る責任がありますから。彼女はあなたの成功を心から信じている。その純粋な気持ちが、かえって真実に近づきやすい」


 小野は一冊の古いスケッチブックを陣に差し出した。


「これは『鳳凰』の創業者と私が、若かりし頃に交わした『味の哲学』をまとめたものです。もし一花さんが、あなたがレシピのルーツを隠していることに気づいたら、これを渡してください」


「これは?」


「『鳳凰』とは関係のない、ただの古い料理ノートだと説明すれば、一花さんは納得するでしょう。あなたがこのラーメンの成功を、一人の人間として、どれだけ真剣に考えているかを理解してくれるはずです」


 小野はこのスケッチブックを、陣と一花の関係を守るための「身代わり」に差し出したのだ。


(小野さんは俺たちのことを……)


 陣は小野の優しさに感謝しながらも、自分の嘘が、新たな嘘と、善意の共犯者によって塗り固められていく現実に、身が引き裂かれるような苦痛を感じていた。


「ありがとうございます。世界フェスが終わったら、俺は一花に、すべてを話そうと思っています」

「そう願っていますよ。この味の真の価値は、あなたの正直さによって初めて完成する」


 小野は陣の肩を軽く叩き、厨房から静かに立ち去っていった。

 小野と別れた直後、一花が店に現れた。


「陣、私、手伝うわ」


 一花は陣をまっすぐ見つめた。


「世界フェス前の最終調整でしょ? いつもの通り、私があなたの舌になってあげる。あなたの試作を、誰よりも早く、一番新鮮な状態で批評するのが、私の役割だったはずよ」


 彼女の目には、疑念と、それ以上の愛情が混じり合っていた。彼女は彼の秘密の核心に近づくため、あえて正面から、かつての役割に戻ろうとしてきたのだ。


「一花……」


 陣は彼女の真剣な瞳から目を逸らすことができなかった。彼は小野のスケッチブックを渡すタイミングを探ったが、一花の鋭い眼差しに、今嘘を吐けば、すべてが終わるという予感がした。


「わかった。ただし試作のスープ作りは、俺の作業を見ているだけだ。味見は構わない」

「ええ、もちろんよ」


 一花は微笑んだが、その笑顔はどこか硬かった。


 陣が試作スープの最終チェックを始めたその時、一花は、陣が調理台から一瞬目を離した隙を逃さなかった。彼女は静かに店の奥の物置へと足を踏み入れた。


 物置の埃っぽい空気の中に、彼女は古いレシピ帳が入れられている木箱を見つけた。そしてその傍らに、一冊の古びたノートが隠されているのを見つけた。


(これよ、陣が言っていた古いノート!)


 一花は心臓をバクバクさせながら、そのノートを手に取り、そっと開いた。しかし中身は、彼女が期待していた「鳳凰のレシピ」ではなく、子供の落書きのような、ひどく稚拙な筆致で書かれた、不完全で矛盾だらけのラーメンのレシピだった。


「……なにこれ?」


 そのレシピは、どう見ても天才的な創作物ではない。まるで料理経験のない子供が、想像だけで書いたような、あまりにも凡庸で稚拙な内容だった。

 一花は混乱した。陣が隠していたのは、この稚拙なレシピ?


(陣は自分の過去の失敗作を隠していたの? でも、なぜそこまで必死に……)


 その時、一花はふと、ページの一番隅に小さく書かれた、あるメモ書きに目が留まった。それは陣の筆跡とは違う、別の誰かの字で書かれていた。


『豚骨と魚介、その魂は、消えた……』

「消えた……?」


 そのメモ書きを見た瞬間、一花の脳裏に、彼女がネットで見た「消えたモンロー」「消えたアニメ」といった、大停電後の奇妙な消失報告がフラッシュバックした。


 そして彼女の心の中で、点と点が結びついた。


(「鳳凰」は私たちが知らないだけで、本当に消滅した? そして陣は、その消滅したレシピを偶然にも持っている? だから彼は、それを「オリジナル」だと偽るしかなかった?)


 彼女は陣の成功が「偽り」ではなく、「世界が忘却した偉大な味の守護」だった可能性に気づいた。そして彼が一人で抱え込んできた途方もない重圧と孤独を理解した瞬間、一花の目に涙が浮かんだ。


 その時、厨房から陣の声が聞こえた。


「一花! どこにいるんだ! スープができたぞ!」


 一花はノートを元の位置に戻し、何事もなかったかのように厨房へ戻った。


「ごめん、トイレに。どう? スープの出来は」


 陣は試作のラーメンを一花の前に差し出した。

 一花はレンゲを手に取り、そのスープを口に含んだ。彼女の口の中に広がるのは、いつもの、完璧に再現された「究極の味」だ。だが、この味はもう、彼女にとって「陣のオリジナル」ではない。それは「世界が忘れた、誰かの偉大な遺産」なのだ。


「……完璧よ、陣」


 一花は陣に向かって微笑んだ。その笑顔は、これまでの彼女の笑顔とは違った。それは彼の秘密を共有し、彼の孤独を知ったがゆえの、共犯者のような、深い愛情と理解に満ちた笑顔だった。


 世界グルメフェスティバルの開幕まで、あとわずか。陣はまだ、自分の秘密が、最も愛する人に気づかれていることを知らず、孤独な嘘の上で世界最高の舞台へと向かおうとしていた。

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