3 共犯者、あるいは良心
「鳳凰の遺産ですか?」
老人の問いは、厨房の冷たい空気の中に、ずしりと重く響いた。
陣は寸胴鍋の縁を強く握りしめたまま、沈黙している。彼の心臓は激しく波打ち、思考は過去と現在の間で揺れ動いていた。凡庸だった自分を救い上げたこのレシピ。そして、この成功を純粋に信じて喜んでくれる一花。すべてを捨てて「鳳凰の遺産」だと公表する勇気が、彼にはまだなかった。
「……あなたの仰ることはわかりません」
陣は必死に平静を装って答えた。
「鳳凰? そんな店は知りません。これは私が、あの晩のインスピレーションに基づいて、何日もかけて開発した、私の『オリジナル』の味です。もしあなたが盗作だと言いに来たのなら……」
老人は静かに、陣の言葉を遮った。彼は寸胴鍋から漂う湯気を見つめ、哀しげに目を細めた。
「盗作だとは言いませんよ。あなたと同じように、私には『鳳凰』の味の記憶が鮮明に残っている。そしてこのスープは、その記憶を完全に、完璧に再現している。あなたはそれを世に蘇らせた。それだけで私は感謝しなければならない」
老人は店の隅にあった古い木製の椅子を引き、そこに腰を下ろした。
「失礼。自己紹介が遅れました。私は小野と言います。私は元々、食品会社の研究員でした。定年退職した後も、趣味で食べ歩きを続けていましてね。あの『鳳凰』の味は、私にとって、研究者人生における一つの到達点のようなものでした」
小野は続けた。
「あの晩の大停電。世界から『鳳凰』が消えた。そして、その味を覚えている人が、ごく少数いる。それは、どういう意味か? 私は考えました。この味はこの世界に残るべきだったのだと」
小野は陣の目を見て静かに微笑んだ。
「八神さん。あなたの成功は、正当なものです。なぜなら、もしあなたがそのレシピを再現しなければ、『鳳凰の味』は永遠に世界から失われていた。あなたは人類の偉大な食文化の遺産を、秘密裏に守り抜いた救世主だ」
陣は「救世主」という言葉に、深い安堵感を覚えた。それは彼が欲しかった免罪符だった。
「それじゃあ、あなたは私がこの味を『オリジナル』として発表し続けても構わないと?」
「ええ。むしろそうして頂きたい」
小野は頷いた。
「この味を『鳳凰の遺産』だと公表しても、誰も信じないでしょう。信じたとしても、それはすぐにオカルト扱いされて終わる。しかし、あなたが『天才・八神陣』のオリジナルとして発表し続ければ、この究極の味は世界に広がり永遠に残り続ける」
小野は身を乗り出した。
「私はあなたに協力を申し出たい。あなた一人ではこの味を安定して、しかも大規模に提供し続けるのは困難でしょう。私は食品研究員として、このスープの完璧な再現と量産化を、陰ながらお手伝いできます。私はただ、この味を失わずに見届けたいだけです」
共犯者。それは陣の孤独な秘密を共有してくれる、唯一の存在だった。彼は小野という予期せぬ協力者を得たことに、安堵と同時に、さらに深く嘘の泥沼に足を踏み入れたという恐怖を感じた。
「わかりました、小野さん。協力して頂けるなら助かります。この店の裏のことは、一花にもほかのスタッフにも秘密でお願いします」
「もちろん。私は影として、この遺産を守りましょう」
こうして、陣は「鳳凰」の味を知る、唯一の共犯者を得た。
小野の研究員としての知識は、目覚ましいものだった。彼はレシピ帳の記述を科学的に分析し、陣が経験則だけで行っていたスープ作りの工程を、驚くほど効率的で安定したものに変えていった。
「八神さん。この魚介のエッセンスは、煮込むのではなく、最後の仕上げに極低温抽出したものを少量加えるべきです。そうすることで、熱で飛びやすい香りを最大限に引き出せる。『鳳凰』が実現できなかった、新たな境地ですよ」
小野の助言により、ラーメンの味はさらに洗練され安定した。
陣は彼のことを心から信頼し、頼りにするようになった。小野は陣にとって「鳳凰」の秘密を唯一共有できる、心の拠り所となっていた。
しかし陣が小野との「秘密の共同作業」に没頭するにつれて、彼はますます一花から遠ざかっていった。
一花は陣の成功を喜びつつも、彼が急に「職人気質な秘密主義者」になったことに戸惑っていた。
「陣、最近、試作のとき、いつも私を厨房に入れないわよね。あの新しい配合、私も批評したいのに」
事務所として使っている二階で、一花が不満げに言った。
「これは世界フェスに出す最終調整だ。極秘中の極秘なんだよ」
陣は冷たく言い放った。彼は一花に小野の存在を知られたくなかった。小野の存在は「すべてが自分のオリジナルである」という嘘が崩壊するトリガーになるからだ。
「そう……」
一花は寂しげに俯いた。
「でも前は違ったわ。以前の陣は私が最初の批評家だって、いつも笑顔で迎え入れてくれた。成功してから、あなた、少し変わったわね」
一花の言葉が、陣の胸に突き刺さった。
「変わったのは、成功したからじゃない。俺は、お前の期待に応えるために必死なんだ!」
陣は苛立ちを隠さず、一花に強く言い返してしまった。彼女の心からの愛情と信頼が、今の陣にとっては、むしろ耐え難い重圧になっていた。
一花はなにも言わず立ち上がり、静かに事務所を出て行った。その背中を見送りながら、陣は後悔の念に襲われたが、謝ることはできなかった。
(俺は一花を遠ざけている。でもこの嘘を打ち明けたら、彼女は俺を偽物だと軽蔑するだろう……)
彼の成功は一花との純粋な関係を代償に築かれたものだった。
世界グルメフェスティバルの開催日が、一週間後に迫っていた。
陣はメディアから「日本の秘密兵器」と持て囃され、そのプレッシャーは最高潮に達していた。
その日、陣と一花は、フェスティバルの最終打ち合わせのため、都心のホテルでテーブルを囲んでいた。会話は業務的なことに終始し、二人の間に流れる空気は重い。
「これで最終確認よ。世界中のトップシェフが、あなたのラーメンを待っているわ。あとは自信を持って臨むだけよ」
一花はプロの顔で、きっちりと書類を閉じた。
「ああ、わかっている」
陣がそう答えた瞬間、一花はふと、何気ない疑問を口にした。
「そういえば陣。あなた、この『至高の濃厚ラーメン』のアイデアを閃いたとき、どこでメモしたの?」
「メモ?」
「そうよ。神の啓示みたいに頭に降りてきたんでしょう? 配合とか、工程とか。レシピ帳に書き込む前に、どこかにメモしたでしょう?」
陣は思わず息を飲んだ。彼の頭の中では、祖父のレシピ帳が浮かんでいる。しかし一花に知られているのは、彼の「オリジナル」のレシピ帳だけだ。祖父のレシピ帳の存在は、一花に一度も話したことがなかった。
「あ……ああ。あの時は急いでいたから、店の奥の古いノートに……」
一花は「古いノート」という言葉に、再び微かな違和感を覚えた。
「古いノート? あなた、料理のメモは全部、新しくて見やすいルーズリーフに書き込む主義だったじゃない。古いノートなんて、あったかしら?」
「あったよ! もう、そんなことはいいだろ!」
陣は感情を爆発させた。一花の小さな質問一つ一つが、彼の築いた嘘の壁を削っていくように感じられた。
一花はその激しい反応に驚き、ショックを受けた表情で口を閉ざした。
陣のその時の顔は、成功とプレッシャーに憔悴しきった、孤独な男の顔だった。そして、一花の心には「陣は何かを隠している。しかも、その秘密は、このラーメンの成功の根幹に関わっている」という疑念が、明確な形を結び始めた。
彼女はプロの評論家としての嗅覚と、彼の幼馴染としての直感で、この成功の裏に潜む「なにか」を、自力で突き止めようと決意するのだった。
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