2 行列、マスコミ、そして秘密の重圧

 一花の熱狂的な記事がネットに公開されてから、わずか二週間。かがみ亭は完全に別の店になっていた。


 開店前から店の前には長蛇の列。行列は店から駅前まで続き、時には折り返して路地の奥にまで延びる。以前は一日8000円だった売上が、今や閉店前にスープが尽き、一日に10万円を優に超えるようになった。


「すごいわ、陣。これこそ、私があなたに求めていた爆発力よ!」


 昼の営業を終え、へとへとになった陣に、一花は興奮気味に言った。彼女は今や陣の「個人マネージャー兼広報担当」のような役割を担っていた。陣自身が多忙で手が回らないマスコミ対応や取材の選定を、彼女が完璧にこなしてくれている。


「一花のおかげだよ。お前の記事一つで、こんなにも変わるなんて」


 陣は心から感謝していた。それに一花がいてくれなければ、この急激な変化に対応できなかっただろう。しかしその感謝の裏で、彼の胸には常に重い鉛が沈んでいた。


「一花、実はさ……」


 彼は真実を打ち明けようと口を開きかけたが、一花のきらきらした瞳を見て言葉を飲み込んだ。


「実は、なに?」

「いや……このスープ、作るのがめちゃくちゃ大変でさ。寝る時間が全然なくて」

「でしょうね! あの味は並大抵の努力じゃ生まれないわ。でも、見てよこの結果。あなたの才能が、ついに世間に認められたのよ! 凡庸な定食屋の二代目なんて言わせないわ」


 一花は陣の手を握り、力強く微笑んだ。彼女の純粋な喜びと信頼が、陣の良心を強く締め付ける。彼女は「鳳凰」の存在を知らない。彼女にとって、この「至高の濃厚ラーメン」は、陣の血と汗と、そして「天才的なひらめき」から生まれたものなのだ。


(彼女の喜びは俺の偽りの上に成り立っている……)


 罪悪感は日ごとに増していったが、成功の快感もまた、彼を麻痺させていった。


 かがみ亭の「至高の濃厚ラーメン」は、たちまちグルメ界の話題を独占した。テレビ局の取材も殺到し、陣は「奇跡の料理人」として一躍時の人となる。


「八神さんは、ある日突然、この究極のレシピを閃いたそうですね。なにかインスピレーションがあったのですか?」


 ゴールデンタイムのバラエティ番組で、人気司会者に尋ねられた陣は、緊張しながらも用意された回答を口にする。


「はい……あの、大停電があった夜です。頭の中に『これだ!』という配合が、突然、流れ込んできたんです。まるで、神様が教えてくれたみたいで……」


 それは嘘ではなかった。「鳳凰」のレシピが、世界から消えた瞬間に、彼の記憶とレシピ帳にだけ残った。本当に「神の啓示」のような出来事だった。


 視聴者たちは、そのロマンチックな誕生秘話に熱狂した。彼の成功は、凡人が一夜にして才能を開花させた、現代のシンデレラストーリーとして報じられた。


 しかしその番組を店の奥で見ていた一花は、陣の「神様が教えてくれた」という言葉に、わずかな違和感を覚えていた。


「神様? 陣はそんなスピリチュアルなことを言うタイプじゃなかったのに……」


 一花は陣の料理人としての情熱を知っていた。彼は地道で堅実な努力家だ。彼女は彼のこの突然の「飛躍」に、歓喜しながらも、底知れない謎めいたものを感じていた。


 二ヶ月後。

 陣は、もう東中野の寂れた定食屋の店主ではなかった。彼は大手食品メーカーとのタイアップで、ラーメンのカップ麺をプロデュースし、それが空前の大ヒットとなった。テレビ出演やイベント出演のオファーは途切れることがなく、常に秘書的な役割を担う一花と共に多忙な日々を送っている。


 店は行列が途切れないため、人件費をかけてスタッフを増強。陣自身は厨房に立つ時間よりも、都心の高層ビルにあるメーカーの会議室や、テレビ局の楽屋にいる時間の方が長くなっていた。


 ある日、一花が陣に、彼の成功を象徴するある重大なオファーを持ってきた。


「陣、聞いた? 今度開催される『世界グルメフェスティバル』の日本代表に、あなたが選ばれたのよ!」


「世界グルメフェスティバル?」


「ええ! 世界中のトップシェフが集まる、料理界のオリンピックみたいなものよ。そこであなたの『至高の濃厚ラーメン』を発表すれば、あなたは世界的なシェフとして認められるわ!」


 陣の心臓が高鳴った。世界。それは凡庸な定食屋の二代目だった彼には、想像すらできなかった舞台だ。


「もちろん、受けるよ。この味を世界に知ってもらうんだ」


 しかしその瞬間、彼の耳の奥で、静かな声が響いた。


「この味は、お前の味ではない」


 罪悪感からか、彼は再び「鳳凰」のことを思い出した。世界から消えた伝説の店。


「なあ、一花。本当に、お前、『鳳凰』っていうラーメン屋のこと知らないか?」


 一花はカップ麺の企画書から顔を上げ、きょとんとした表情で陣を見た。


「鳳凰? またその名前。新しいライバル店? なにか取材で聞いたの?」

「いや……ただ昔、すごく美味いラーメン屋があった気がして」

「陣、変よ。そんな美味い店があったなら、私が見逃すはずないじゃない。私が知る限り、あなたのラーメンが日本で最高の濃厚ラーメンよ」


 一花は笑いながら言った。その言葉には、一片の疑いもなかった。

 陣は自分が孤独な嘘吐きであることを再認識し、言い訳するように頭を振った。


「そうだな。俺の勘違いだ。ごめん、フェスの準備、頼む」


 ある晩。

 世界グルメフェスティバルの準備が進む中、陣はフェスで使う予定の試作スープの味を確認するため、深夜に一人で厨房に立っていた。完璧に再現された「鳳凰の味」。


 その時、店の裏口からガチャリと鍵が開く音がした。


「誰だ!」


 陣が声を上げると、裏口のドアが開き、一人の老人が立っていた。細身で白髪交じり、くたびれた作業服を着た、見慣れない人物だ。


「夜分にすみませんね、店主さん」


 老人は静かに言った。


「この匂い、まさかとは思いましたが……」


 老人は寸胴鍋から立ち上るスープの香りを深く吸い込むと目頭を押さえた。


「ああ……懐かしい。この香りだ。間違いありません。鳳凰の香りだ」


 陣は全身の血の気が引くのを感じた。


「な、なにを言ってるんですか? その店は……もう……」

「知っていますよ。この世界には、もう存在しないことになっている。あなたと同じように、私にもその店と、あの味が頭から離れないんです。私もね、『鳳凰』の常連だったんですよ」


 老人は静かに、しかし確信に満ちた目で陣を見た。


「店主さん。あなたも、あの大停電のときに、なにかを感じた口ですか?」


 陣は恐怖で言葉が出なかった。自分以外に「鳳凰」の存在を覚えている人間がいた。そして、その人物は、目の前のスープを見て「鳳凰の味」だと断言した。


「どうか、安心して頂きたい」


 老人は一歩前に踏み出した。


「私は――あなたの成功を邪魔しに来たわけではない。むしろ、感謝している」


 老人は陣の前に立ち深く頭を下げた。


「この味を忘れずにいてくれて、ありがとうございます。私にとって、これは人生そのものだった。ただ、一つだけ、お伺いしたい」


 老人は顔を上げ、真剣な眼差しで陣を見つめた。


「あなたはこのレシピを『誰のもの』だと考えていますか? あなたのオリジナルの『至高の濃厚ラーメン』ですか? それとも世界が忘れてしまった、『鳳凰』の遺産ですか?」


 陣は喉の奥に鉛を詰め込まれたように、なにも答えられなかった。彼が必死に築き上げてきた偽りの城が、今、この老人の静かな問いかけによって、ガラガラと崩れ落ちようとしていた。


 世界は忘れた。だが、二人だけが覚えている。陣は究極の味という「神のレシピ」の真の重さと、自分が背負った孤独な嘘の重圧を、改めて突きつけられることになった。

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