1 神のレシピと、偽りの創造主

 スマホの画面を睨みつけながら、陣は汗だくになっていた。真夏の昼間でもないのに、手の平と背中にびっしょりと冷や汗をかいている。


「そんな馬鹿なことが……あり得るのか?」


 スマホの検索窓には「鳳凰ラーメン閉店」「鳳凰創業」「鳳凰レシピ」といった文字が残っている。だが、どの検索結果も、日本のグルメ史を語る上で欠かせないはずの伝説の店に言及することはなかった。代わりにヒットするのは、どうでもいいB級グルメの情報ばかりだ。


 陣は無言で店の固定電話を取り、昔、父が「鳳凰」の創業者のために特別に作ったという食器の卸業者に電話をかけた。


「あ、もしもし。東中野のかがみ亭です。少しお伺いしたいんですが……鳳凰っていうラーメン屋、覚えていらっしゃいますか?」

「えっ? りゅうおう? どっかのチェーン店ですかね? すみません、うち個人店がメインなもんで……」


 卸業者は全く知らない様子だった。陣は続けて、かつて「鳳凰」の取材を担当していたグルメ雑誌の編集部に電話をかけたが、対応した若手編集者は「りゅうおう? 初めて聞きましたね。新しい店ですか?」と間の抜けた返事をするばかりだ。


 世界は、あの数秒間の大停電を境に、「鳳凰」の存在しない歴史に書き換わってしまったのだ。


「……俺は頭がおかしくなったのか? いや、違う。あの味は、この舌が、この細胞が覚えている。一花だって、鳳凰の味を『究極の神髄』だって言ってたじゃないか!」


 陣は衝動的に、彼女に連絡を取ろうとスマホを手に取った。しかし指が一花の連絡先に触れる寸前で、ぴたりと止まる。


 もし、一花まで「鳳凰」を忘れていたら?

 彼女にこの話をしたら、どうなるだろう。きっと「陣、疲れているのよ」と心配されるか、最悪の場合、「現実逃避で変な妄想をしている」と距離を置かれるかもしれない。


 陣は、まるで熱い鉄を握ってしまったかのようにスマホを投げ出した。


(一花に話すのは危険だ。俺が一人で、これを証明しなきゃいけない)


 証明。そう、彼はこの狂った現実から自分の正気を守るため、唯一残された証拠を探し始めた。


 そして彼の視線は厨房の奥、物置と化している一角へと向かう。埃を被った段ボールの山、その一番下に、祖父の代から続く「門外不出のレシピ帳」が眠っているはずだった。


 ガタガタと段ボールをどかし、木製の古い箱を開ける。中には油と湿気で黄ばんだ数冊のノートが収まっていた。そのうちの一冊を、陣は慎重に開いた。


 祖父の癖のある筆跡で、店の主要メニューのレシピが書かれている。チャーシューの煮込み時間、餃子の餡の配合、そして醤油ラーメンのタレの黄金比。


 ページを捲っていくと、そのノートの最後に、ほかのレシピとは明らかに違う、特殊なインクで厳重に封印されたページがあった。


 鳳凰の秘伝。

 そのページには、確かに、あの「伝説の超濃厚スープ」のレシピが、詳細な工程と共に書き記されていた。厳選された数十種類の豚骨と鶏ガラの配合比率、隠し味の魚介の種類と量、そしてスープを二日間かけて煮込む独特の火加減の制御法。


「あった!」


 震える手で陣はそのレシピを指でなぞった。これは世界から消えてしまったはずの、日本最高の味の設計図だ。


 なぜ祖父がこのレシピを持っていたのか。それは、陣の祖父と「鳳凰」の創業者が若い頃、修行時代を共にした親友同士だったからだ。二人は互いの料理の秘密を交換し合ったが、「鳳凰の味だけは、絶対に世に出さない」という誓いを立てていたと、父から聞いたことがあった。


 その誓いは、世界が「鳳凰」の存在そのものを忘れるという、皮肉な形で破られた。


 今、この世界で、このレシピを知っているのは自分一人だけだ。

 陣の脳裏に、一花の言葉が蘇る。


「もっとこう、バチッと魂に響くような、究極の味を目指さないと」


 そうだ。究極の味は、ここにある。

 彼はレシピ帳を抱きしめ、しばらくその場で立ち尽くした。


 これは、神の与えた試練か、それとも救済か。凡庸な定食屋の二代目として一生を終えるはずだった自分に与えられた、世界を変えるチャンス。


 もし、このレシピを「オリジナル」として発表したら? 彼は瞬時に、自分の店が全国トップクラスのラーメン屋になり、一花の言う「魂が震える料理人」になれる未来を想像した。


(俺は鳳凰のレシピの、偽りの創造主になるのか?)


 罪悪感が胃の奥から込み上げてくるが、経営不振の店の現状と、一花の寂しそうな顔が、彼の背中を押した。


「やってやる。この味を、俺の人生を、このレシピで変えてやる!」


 翌日から陣の生活は一変した。彼は定食の注文を極力避け、厨房を閉め切って、「鳳凰の秘伝」の再現に没頭した。


 何日も寝る間を惜しんで、大量の豚骨と鶏ガラを寸胴に放り込む。レシピ帳に書かれた通り、厳密に火加減と時間を管理し、夜通しスープの様子を見守った。


 彼の集中力は、かつてないほど鋭くなっていた。凡庸だった彼は、今や「神の設計図」を完璧に再現するという、至高の使命に駆られている。


 そして、三日目の夜。

 店内に濃密な香りが立ち込めた。それは獣臭さとは無縁の、芳醇で深い旨味を予感させる香り。黄金色の油の層が浮かぶ、白濁したスープ。一口飲んだ瞬間、陣の目から熱い涙が零れた。


「これだ……この味だ!」


 記憶の中の「鳳凰」の味。完全に等しい究極の味が、彼の厨房で蘇ったのだ。

 彼はそのスープに、特注の太麺と、秘伝のタレを合わせ、一杯のラーメンを完成させた。


 翌朝。

 かがみ亭の開店直後、店の前に一台の高級外車が止まった。降りてきたのは幼馴染の一花だ。


「陣、遅刻よ! ……ちゃんと寝てないの?」


 一花は心配そうに陣を見つめた。彼は目の下のクマを隠そうともせず、しかし自信に満ちた笑みを浮かべて言った。


「一花。今日からだ。俺の、いや、うちの店の歴史が変わる。お前が心底震えるような、究極のラーメンができた」


 一花は少し戸惑いながらも、いつものカウンター席に座った。


「いきなりどうしたの? そんな自信。で、なにラーメン?」


 陣は静かに答えた。


「かがみ亭・至高の濃厚ラーメンだ」


 そして彼は完成した一杯を一花の前に置いた。白濁したスープの上には、美しく並べられた自家製チャーシューと、秘伝の油が輝いている。


 一花は警戒しながらも、ゆっくりとレンゲを手に取った。一口、スープを啜る。

 その瞬間、一花の目が大きく見開かれた。彼女の表情から、すべての警戒心が消え、代わりに純粋な驚愕と感動が溢れ出した。


「な、なにこれ……」


 一花は言葉を失い、二口、三口とスープを啜った。そして、まるで魂を抜き取られたように、静かに目を閉じ口を開いた。


「陣……これは……」


 彼女は涙目で、陣を見上げた。


「これは、本物よ。私がずっと、あなたに求めていた味。いや、それ以上。これこそ私が追い求めていた、神のレシピよ!」


 一花の言葉は、陣の胸を打った。それはこの狂った世界で、彼が抱える罪悪感をすべて帳消しにするほどの、最高の賛辞だった。


(これでいいんだ。この味を世界に届けることが、俺に課せられた使命なんだ)


 彼は自分に言い聞かせた。

 そしてその日の昼、一花がSNSに投稿した「東中野に現れた、究極のラーメン。これは日本の食文化を変える」という記事を皮切りに、かがみ亭の周りには、瞬く間に長蛇の列ができ始めることになる。


 凡庸な定食屋の二代目は、偽りの名声と、究極のレシピという爆弾を抱え、新しい人生のスタートラインに立っていた。

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