第5話
あたしの家の前を通る車の数は、一日に何台あるだろう。
国道から一本入ったこの道は、昼間でもそんなに車が通らない。夜になると、もっと少ない。代わりに、遠くの国道を走るトラックの音が、山の向こうから低く響いてくる。
その低い音が、一晩中、波みたいに続く。
「また、トラック通ったね」
テレビの音を少し下げて耳を澄ますと、エンジンの唸りが確かに聞こえる。窓ガラスが、かすかに震える。
その音を、あの子もどこかで聞いているだろうか、と一瞬考えてから、すぐに「聞いてるわけないか」と自分で打ち消す。
あの子のいる街の車の音は、きっともっと高くて、もっと途切れなくて、もっと近い。
――――
キッチンの蛍光灯は、端のほうがちょっと暗い。
替えないといけないと思いながら、今日もスイッチを入れる。チカチカと短く瞬いてから、なんとか全体が明るくなる。その光の下で、まな板に並べたにんじんと大根を切っていく。
包丁がまな板に当たる音が、トントンと一定のリズムを刻む。テレビから流れるニュースの音と、冷蔵庫のモーターの低い音と混ざって、台所の空気を埋める。
鍋には、昨日から煮込んでいる具だくさんの煮物。こんにゃく、ごぼう、ちくわ、大きめに切った根菜。しょうゆと砂糖とみりんの匂いが、ゆっくり部屋に広がっていく。
「あの子、これ好きだったんよね」
声には出さず、頭の中だけでつぶやく。
まだうちにいた頃、「またこれ?」なんて言いながらも、おかわりした日があった。「今日の当たり」と笑っていた顔を、あたしは勝手に一生ものにしてしまった。
何年経っても、その一回分の記憶だけで、同じ味を作ろうとしてしまう。
――――
煮物を少し取り分けて、粗熱を取るためにタッパーに移す。
明日、これを冷ましてから、クール便の箱に詰めるつもりだ。きんぴら、卵焼き、ちょっとだけ高いソーセージ、近所のスーパーの地元野菜ジュース。箱の中で動かないように、あれこれ並べては入れ替える。
「こんな詰め込んで、迷惑ちゃうかな」
そう思う日もある。
あの子が、都会で何を食べているのか、具体的には知らない。たまに電話で「今日はコンビニ」とか「外で食べてきた」とか聞くけれど、その中身までは見えない。
コンビニのごはんが全部悪いとは思っていない。あたしだって疲れた日は買う。それでも、自分の作った煮物のほうが、あの子の身体にとって「よさそうだ」と信じたい気持ちが、どうしても抜けない。
信じることと、届くことは別やと分かっていても。
――――
詰め終わったタッパーをテーブルに並べて、全体を眺める。
茶色、黄色、緑。写真を撮って誰かに見せたら、「田舎のおふくろの味ですね」と言われそうな色合い。
スマホを取り出して、一枚だけ写真を撮る。
この写真を、あの子に送るかどうか、いつも少し迷う。
「また送るからね」と自分から知らせてしまうと、あの子の自由な時間を取ってしまう気もする。「干渉しすぎ」と思われるのも怖い。
結局、何も送らないまま、写真だけがアルバムに増えていく。スクロールすれば、前に送った便の中身、去年のおせち、誕生日のケーキ。どれも、あの子のいないテーブルの上で撮ったものばかりだ。
――――
テレビから、都会の映像が流れてくる。
人でいっぱいの駅前、交差点、高層ビルの夜景。レポーターが、「多くの人で賑わっています」と当たり前のことを言う。
その画面のどこかに、あの子が紛れ込んでいるかもしれない。そう思って目を凝らしてみても、見覚えのある顔は見つからない。
「都会はすごいねえ」
誰に向かってでもなく、そうつぶやく。
あの子がそこにいることを、完全に受け入れているわけでも、完全に反対しているわけでもない。安心と不安が、半分ずつ、胸の中で固まらずに揺れている。
――――
テーブルの端には、スマホが伏せて置いてある。
画面は暗いけれど、その向こうに「あの番号」と「最近の通話履歴」があることを、あたしは知っている。
スマホをひっくり返すと、画面が明るくなり、今日の日付と時間が出る。通知の一覧には、町内会の連絡、近所の友だちからのスタンプ、通販サイトのセールのお知らせ。
あの子の名前は、そこにはない。
通話アプリを開く。履歴の中に、その名前を見つける。最後に話した日付が、思っていたより前だと分かって、眉間にしわが寄る。
「この前しゃべったばっかりやと思っとったのに」
誰もいない台所でそう言ってみても、時計の針は止まらない。
――――
電話をかけるかどうか。いつも、一度は迷う。
仕事中やったらどうしよう。電車の中やったら。友だちとおるときやったら。画面に自分の名前が出た瞬間、あの子がどんな顔をするのか。
「うっとうしい」と思われるのが怖くて、「何も言わなかった」ことをあとで悔やむのも怖い。
結局、怖さ同士で引き分けになったところで、親指が「あの番号」を押す。
耳に当てる前に、一度だけ息を吐いてから、スマホを耳の横にあてる。
呼び出し音が鳴る。二回、三回、四回。一定の間隔で続くその音が、国道を走るトラックのリズムと重なる。
五回目を数えたところで、留守番電話の機械の声に切り替わる。
「ただいま電話に出ることができません……」
最後まで聞く前に、通話を切る。留守電に何か残そうかと迷う時間も、毎回同じくらい短い。その短さが、自分なりの小さな意地だ。
――――
テーブルの上にスマホを置く。
通話履歴には、「発信 0:05」とか、「不在着信」とか、味気ない文字が増えていく。秒数はいつも短い。ちゃんと話した時間より、「かけて、出なくて、やめた」時間のほうが、履歴の中では目立つ。
「元気でやっとるなら、それでええんやけどね」
そう口に出してみると、少しだけ本当みたいに聞こえる。
ほんとは、「元気でやっとる」の中身を、もう少し具体的に知りたい。
でも、そこまで踏み込む手段は、ここからは荷物と電話しかない。電話は留守電に跳ね返され、荷物だけが距離を渡っていく。
――――
箱の横には、送り状が一枚置いてある。
「おところ」「おなまえ」の欄に、何度も書いたことのある住所と、あの子の名前を書くときだけ、ボールペンを握る手が少し丁寧になる。
その下の「ご連絡先」には、さっきまで呼び出し音を鳴らしていた番号を書く。宅配業者だけが知っている、「届かなかったらここにかけてください」の番号。
追跡番号の印字された控えが、ミシン目で切り離されて、あたしの手元に残る。その紙切れ一枚が、明日から数日間、あの子とこの家をつなぐ唯一の「公式な線」になる。
ネットで荷物の状況を確認すれば、「受付」「輸送中」「配達中」「配達完了」と、何百キロも離れた場所での箱の動きが、数字と文字で表示される。
そのどこにも、箱を開けたときの顔は映らない。
――――
寝る前に、もう一度だけメッセージアプリを開く。
あの子とのトークルームには、「ありがとう」「送っといたよ」「ちゃんと食べとる?」「うん、大丈夫」という短い言葉が並んでいる。スタンプが一つ、二つ。あの子が送ってきた都会の夜景の写真が数枚。
ビルの隙間から見える空。交差点のネオン。コンビニの袋を持った手だけが写っている自撮り。
そのどれにも、声は入っていない。距離のぶんだけ、画面はきれいで、静かだ。
あたしは、「明日、荷物出すけんね」と打ちかけて、やめる。「もう送るって分かっとるやろ」と思いたい自分と、「知らせたほうがいい」という自分が、また綱引きを始める。
結局、その夜は何も送らない。
――――
布団を敷いて、その中にもぐり込む。
電気を消すと、窓の外から入ってくる街灯と、向かいの家の窓の明かりが、天井に薄く映る。都会みたいにぎっしり光っているわけじゃない。ぽつぽつとついた灯りと、そのあいだの暗さ。
あの暗さのほうが、あたしには落ち着く。
目を閉じると、遠くの国道を走るトラックの音が、さっきよりはっきり聞こえる。
ゴーッという低い音が、一定の間隔で近づいては遠ざかる。その間を埋めるみたいに、家のどこかで木が軋む音や、冷蔵庫のモーター音が鳴る。
あの子のいる街では、きっと違う高さのエンジン音と、人の話し声と、電車のブレーキの音が、一晩中どこかで鳴っているんだろう。
同じ夜でも、聞こえている音がこんなに違う。
それでも、どちらの場所でも、「今日」の終わりを知らせる音として、ちゃんと続いている。
明日箱に詰める煮物の味が、あの子の舌にどう届くのか。
それを考えようとして、「まずは無事に届きますように」とだけ願って、あとは考えるのをやめる。
あたしの意識は、トラックの波みたいな音を聞きながら、少しずつゆるんでいく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます