第70話

📘 第70章:愛した共犯者



(世界で一番残酷な愛の証明。

それは、心を待たないあなたの代わりに、私が痛み引き受けることでした。)



🔷 【2060年・崩壊の時】


2060年、晩秋。

病室のベッドには、痩せ細り、呼吸も浅くなった沙耶(さや)の姿があった。


脳への過度な負荷による多臓器不全。

それは、本来の人格を押し殺し、RE:CODE計画の「妻役」を演じ続けた彼女の末路だった。


「……来てくださったのですね、維人さん。」


酸素マスクの下で、沙耶が弱々しく微笑む。

病室のドアには、結城維人が立っていた。


「バイタルが危険域に入った。……最期を看取るのは、夫としての義務だ」


その言葉に、温度はない。

彼は「新太の妻としての沙耶」に言っているのか、それとも……。



🔷 【最後の願い】


「……お願いがあります。」


沙耶は、残った全ての力を振り絞り、結城に手を伸ばした。


「私を……戻してください。……『沙耶』という役は、もう十分演じました。」


彼女の瞳から涙が伝う。


「死ぬ時は……あなたの妻として、**『結城 望(ゆうき のぞみ)』**として死にたいのです。」


それは、彼女の魂の叫びだった。



かつて、政治家・榊原廉也(さかきばら れんや)の娘として生まれ、若き天才科学者・結城維人と恋に落ち、結ばれた日々。

しかし、夫の理想とするRE:CODE計画のために、彼女は自らその身を捧げた。


『君にしか頼めない。新太の監視と、精神的支柱になれるのは、君だけだ』


その言葉だけを信じて、彼女は自分の記憶を封印し、新太の子を産み、育てたのだ。


結城は少しの間、無表情で彼女を見下ろしていたが、やがて淡々と頷いた。


「……いいだろう。君の献身により、計画は完成した。……苦労をかけたな、望。」


結城は端末を操作し、ベッドサイドの医療機器に接続する。


「解除コード入力。……ターゲット『My Wife』、記憶封印解除。」



🔷 【結城 望の帰還】


電子音が鳴り響く。

数分後、彼女が再び目を開けた時、その瞳の光は変わっていた。


穏やかな「沙耶」ではない。

知的で、凛とした美しさを持つ、本来の彼女――結城 望がそこにいた。


「……ああ……維人さん。」


望は、愛する夫の顔を見つめ、震える手でその頬に触れた。


「お久しぶりです……。相変わらず、難しいお顔をされていますね。」


「そうか? いつも通りだ。」


結城は、妻の手の温もりを感じても、眉一つ動かさない。

望は、そんな夫を見て、悲しげに、けれど慈愛に満ちた笑みを浮かべた。



「ええ……本当に、昔のままですね。……自分の妻を他の男性に嫁がせて、子供まで産ませて……それでも、平気なお顔をされて。」


「それが最も効率的で、確実な方法だったからだ。」


「……存じております。あなたは、そういう方ですもの。」


望の瞳に、責める色はなかった。あるのは、深い理解だけだ。


「生まれながらに感情(ノイズ)を持たず、ただ進化だけを見つめてこられた方。……だからこそ、私があなたの『心』になりたかった。」


誰よりも孤独で、何かが決定的に欠落しているこの人を、私が埋めてあげたかった。

たとえその果てが、こんな結末だとしても。



🔷 【遺されるもの】


「……維人さん。」


望の呼吸が、次第に途切れ始める。


「空人(くうと)を……あの子を、お願いします。」


ベッドの脇で、事情も分からず怯えている3歳の息子。

新太の血を引き、望の腹を痛めて産まれた子。


「あの子は……私達の歪んだ愛の結晶です。……どうか、道具としてではなく……息子として……。」


「……善処する。」


結城の短い答えを聞き、望は満足そうに目を閉じた。


「……愛しています、維人さん。……あなたの一部になれて……幸せでした……。」



モニターの電子音が、一本の線を描く。


結城 望は、最期まで「欠落した科学者」の妻として、その全てを受け入れ、息を引き取った。



🔷 【氷点下の別れ】


「……死亡確認。」


結城は、望の目蓋(まぶた)を閉じてやり、静かに立ち上がった。

涙はない。動揺もない。


ただ、彼の心にある巨大な空洞に、また一つ「喪失」という事実が放り込まれただけだ。


「ママー! ママー!!」


泣き叫ぶ空人。

結城は、その小さな肩に手を置いた。


「泣くな。」


冷たい声。


「母は、役目を終えて眠っただけだ。……行くぞ、空人。」


結城は、妻の亡骸に背を向け、幼い「息子」の手を引いて病室を出ていく。


その背中は、あまりにも孤独で、そして絶望的なほどに何も感じていなかった。


妻の命すらも踏み台にして進む結城維人。

その罪の重さを、彼自身が知るのは、ここからさらに2年後(2062年)のことである。



🔚 第70章・完

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