第58話

📘 第58章:深淵の光と影



(悪夢が終わる時、

人は初めて、本当の朝を迎える。)



🔷 【開戦の合図】


地下室の空気は、張り詰めた弦のように冷たく、重かった。


簡易ベッドに横たわる月陽(つきひ)の腕には、点滴の管が繋がれている。

その管の先には、甲斐が精製した透明な液体――『ECHO誘発剤』がセットされていた。



「……月陽ちゃん。怖くない?」


灯(ともり)が、月陽の小さな手を両手で包み込んで尋ねる。


月陽は青ざめた顔で、それでもコクリと頷いた。


「……こわい。でも、やっつける。……ママをいじめるおばけを、やっつけるの。」


その瞳には、7歳とは思えないほどの強い意志が宿っていた。

彼女もまた、逃げ続けることの限界を本能で悟っていたのだ。



「よし。……始めるぞ。」


枕元に立った紋之丞が、太い腕でベッドの柵を掴み、覚悟を決めたように言った。

暴れ出した時、彼女を押さえ込み、守るのは彼の役目だ。


甲斐が頷き、コックを開いた。


透明な液体が、一滴、また一滴と、月陽の体内へと流れ込んでいく。

それは、パンドラの箱を開ける鍵だった。



🔷 【赤と黒の嵐】


「う……うぅ……っ!!」


数分後。月陽の体が弓なりに跳ね上がった。


「ギャアアアアアアアッ!!」


少女の口から、裂帛(れっぱく)の悲鳴が迸(ほとばし)る。

脳内のシナプスが強制的に発火し、閉じ込められていた記憶の扉が一斉に吹き飛んだのだ。


月陽の視界は、現実の天井から、あの日の「地獄」へと塗り替えられた。


――ガシャーン! バキッ!


物が壊れる音。怒号。暴力の旋律。



視界いっぱいに広がるのは、赤黒い影(パパ)だ。


新太のような優しい笑顔はない。あるのは、獣のように荒れ狂い、全てを破壊する圧倒的な暴力(翔真)。


『――逃げろ!!』


誰かが叫んでいる。

怖い。痛い。苦しい。


月陽は記憶の中で必死に耳を塞ぐが、その咆哮は脳に直接響いてくる。

逃げ場のない絶望。影が大きな口を開け、月陽を飲み込もうと迫ってくる。



「いやぁぁぁ! パパやめてぇぇぇ!!」


現実世界で、月陽が狂乱し、暴れる。

紋之丞がそれを必死に抱き止める。


「しっかりしろ月陽! 俺がいる! 俺たちがついてる!!」


だが、その声は悪夢の嵐にかき消されそうになっていた。



🔷 【日だまりの記憶】


闇に飲み込まれる寸前。

月陽の記憶の底から、一筋の「光」が溢れ出した。


それは、暴力の記憶よりももっと深く、もっと根源的な場所に眠っていたもの。


『……真羽(まう)。』


柔らかく、温かい声。

月陽がハッとして顔を上げた。



そこには、赤黒い嵐の中に、凛と立つ一人の女性がいた。


長い髪。日だまりのような瞳。

写真や絵ではない。動いている、生きている「本当のママ(光生)」だ。


ママは傷だらけになりながらも、決して影に背を向けず、両手を広げて月陽を庇っていた。


『大丈夫。ママが守るから。……愛しているわ、真羽(まう)。』



その名前。

偽りの「月陽」ではなく、魂に刻まれた本当の名前。


(……まう。……そう、わたしは、まうだ!)


その瞬間、月陽――いや、真羽(まう)の体に温かい力が満ちた。

暴力への恐怖よりも、母から受け取った「愛された記憶」の方が、確かに強かったのだ。


真羽は泣きながら、ママの背中にしがみついた。


その背中から伝わる鼓動が、真羽に勇気を与える。

パパは怖かった。でも、ママはそれ以上に強かった。


そして今、その「ママの温もり」は、現実世界の別の温もりと重なり合っていた。



🔷 【二つの声】


「負けないで、真羽(まう)ちゃん!!」


闇を切り裂くように、現実世界からの声が届いた。

灯(ともり)の声だ。彼女もまた、月陽の「本当の名前」を叫んでいた。


「あなたは光生さんが命懸けで守った宝物です! あの影なんかに、絶対に負けない!」


そして、もう一つの低い声。


「お前は俺の娘だ! 誰にも傷つけさせねぇ!!」


紋之丞の怒号のような、けれど頼もしい叫び。



記憶の中の光生が、ふっと微笑んだように見えた。

まるで、『後は頼んだわ』と、灯たちにバトンを渡すように。


真羽は、涙を拭い、赤黒い影(パパ)を睨みつけた。


「……わたし、もうこわくない。」


真羽は震える足で、一歩前に踏み出した。


「パパは、かわいそうなひと。……でも、わたしはママの子だから。」


その瞬間、赤黒い影は光に焼かれ、霧散していった。

過去の恐怖が、現在の愛によって「ただの記憶」へと変わった瞬間だった。



🔷 【四人の親】


「……はっ!」


真羽が大きく息を吸い込み、カッと目を見開いた。

荒い呼吸。全身汗まみれだ。


嵐は去った。


真羽は、呆然と天井を見つめ、乾いた唇で何度も、何度も繰り返した。


「……わたしは、まう。……わたしは……まう……。」


「……っ!」


灯(ともり)はたまらず、震える真羽の体を強く抱きしめた。


「そうよ……! そうよ、真羽ちゃん!」


灯の涙が、真羽の頬に落ちる。



真羽の瞳に、ゆっくりと光が戻ってきた。

目の前には、泣きじゃくる灯と、サングラスを外して目を赤くした紋之丞がいる。


灯は、真羽の顔を両手で包み込み、噛み締めるように言った。


「今日から、あなたは『志(こころざし) 真羽(まう)』。」


灯は、隣に立つ紋之丞(志 紋之丞)を見上げ、そして力強く宣言した。


「私達の娘よ!」


真羽が、瞬きをする。


「……わたしたちの?」


「ええ、そうよ。……あなたは一人じゃない。」


灯は、優しく、けれど確信を込めて告げた。


「あなたは……光生(みつき)さんと、翔真(しょうま)さんと、紋之丞さんと、私の……4人のパパとママの娘よ!」



血の繋がった両親の記憶。

そして、これから共に生きる両親の愛。

その全てが、あなたを守る盾になる。


「……うん。」


真羽の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。

それは恐怖の涙ではなく、自分が何者であるかを知り、受け入れられた安堵の涙だった。


「……うんっ……!」


真羽は声を上げて泣き、灯と紋之丞の腕の中に飛び込んだ。


地下の薄暗い部屋に、新しい家族の産声(うぶごえ)が響き渡る。



その光景を、透也は少し離れた場所から静かに見つめていた。

彼はふっと天井を仰ぎ、見えない誰かに語りかけるように目を細めた。


(……光生。)


妹の笑顔が、脳裏をよぎる。


(お前は……翔真を救ったんだな。)


かつて翔真を狂わせた闇。

しかし今、真羽はお前への愛を武器に、その闇を乗り越え、受け入れた。

憎しみではなく、哀れみと愛で、父親を許したのだ。


(真羽を通して、お前の想いはあいつに通じたぞ。……お前の死は、決して無駄じゃなかった。)


透也の頬を、一筋の熱いものが伝う。


彼はそれを拭おうともせず、新生した家族に向かって、万感の思いを込めて呟いた。


「……ようこそ、真羽。」


長い夜が明けようとしていた。



🔚 第58章・完

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