第57話

📘 第57章:光の種



(罪人は忘却の彼方へ。

けれど、その手が蒔いた種だけは、確かに芽吹く。)



🔷 【模範的な市民】


ショッピングモールは、穏やかな昼下がりの喧騒に包まれていた。


「新太さん、重くない? 私、半分持つわよ。」


「大丈夫だよ、沙耶。これくらい、なんてことないさ。」



黒峰新太は、両手に抱えた買い物袋を軽々と持ち上げ、柔和な笑みを浮かべた。

その姿は、どこからどう見ても「妻を労る優しい夫」であり、善良な市民そのものだ。


すれ違う人々が、微笑ましそうに二人を見る。


かつてこの男が、暴力と恐怖で周囲を支配し、誰も逆らえない絶対的な存在として君臨していたことなど、誰も想像すらできない。


本人でさえも、忘れているのだから。



「あ……。」


ふと、新太が足を止めた。

モールの裏手、搬入口へと続く路地の方から、怒鳴り声と鈍い音が聞こえた気がしたのだ。


「どうしたの?」


「……ちょっと、待っていてくれ。」


新太は買い物袋を沙耶に預けると、吸い寄せられるように路地へと向かった。



🔷 【路地裏の少年】


路地の奥では、3人の男たちが、1人の少年を取り囲んで蹴り上げていた。


少年は高校生くらいだろうか。制服は汚れ、口の端から血を流しているが、その目は死んでおらず、ギラギラとした反抗心で男たちを睨み返している。


「生意気なんだよ、ガキが!」


男の一人が、鉄パイプを振り上げた。



「やめないか!」


新太の声が響いた。

男たちが動きを止め、驚いて振り返る。


「……ああん? なんだおっさん。怪我したくなきゃ失せな。」


男たちが嘲笑いながら近づいてくる。


少年が叫んだ。

「逃げろよアンタ! こいつらマジでヤバいぞ!」



だが、新太は逃げなかった。

男が鉄パイプをフルスイングした瞬間、新太の体が思考よりも先に動いた。


――ブンッ!


鉄パイプが空を切る。

新太は紙一重でそれを躱(かわ)すと、男の手首を掴み、ただ「制止」した。



万力のような握力。


かつて、自分の意に沿わない者を力でねじ伏せ、支配してきた暴力の才能。

それが今、彼の手の中で「制止」という形をとって発現する。


「暴力はいけない。……話し合えば分かるはずだ。」



残りの二人も殴りかかってきたが、新太は全てを最小限の動きで受け流し、あるいは自らの体を盾にして少年を庇った。


殴られても、蹴られても、新太は決して拳を握り返さなかった。


気味悪がった男たちは、捨て台詞を吐いて逃げていった。



「……なんでだよ。」


残された少年は、泥だらけになった新太を見て悪態をついた。


「あいつら全員、ボコボコにできたはずだろ!? あんだけ動けるなら、なんで殴り返さねぇんだよ!」


「……殴ったら、彼らと同じになってしまうからね。」



新太は困ったように笑い、ポケットからハンカチを取り出した。

そして、少年の切れた唇にそっと当てた。


「君もだ。……その強さは、誰かを傷つけるためじゃなく、守るために使うべきだよ。」


少年は、その言葉を反芻(はんすう)した。

荒んだ心に、一滴の雫が落ちたような感覚だった。



🔷 【赤い風船】


それから数日後。

新太は、近所の公園のベンチで本を読んでいた。


「うぇぇぇぇん!」


突然、子供の泣き声が響いた。

顔を上げると、大きな木の根元で、7歳くらいの女の子が空を見上げて泣いている。



新太は本を閉じ、自然と足が向いていた。


「どうしたんだい? お嬢ちゃん。」


「あ、あのね……ふうせん……ひっかかっちゃったの……。」


女の子が指差した先、高い枝に赤い風船が引っかかっている。

大人の背丈でも到底届かない高さだ。



「なるほど。それは大変だ。」


新太は上着を脱ぐと、軽やかに木の幹に手をかけた。


かつて、他者を圧倒するために鍛え上げられた強靭な肉体。

今は、ただ一人の子供を泣き止ませるためだけに使われる。


スルスルと木を登り、枝先の風船を優しく外す。



地面に降り立ち、女の子に手渡すと、彼女の顔がパァッと輝いた。


「ありがとう! おじちゃん、すごい! ヒーローみたい!」


「ふふ、ヒーローか。……それは買いかぶりだよ。」


新太は苦笑して、女の子の頭をポンポンと撫でた。



その手触り。


柔らかい髪の感触が、ふと、新太の胸の奥にある「何か」をざわつかせた。


(……懐かしいな。この感じ。)


自分には子供はいないはずなのに。

なぜか、この高さから子供を見下ろす視界に、強烈な既視感を覚える。



「……さあ、ママのところへお行き。」


「うん! バイバイ!」


女の子が手を振って駆けていく。

その小さな背中を見送りながら、新太は自分の掌(てのひら)をじっと見つめた。



🔷 【名もなき善意】


「あら、新太さん。また人助け?」


買い物帰りの沙耶が通りかかり、微笑ましそうに声をかけた。


「……ああ。体が勝手に動いてしまうんだ。」



新太は、遠ざかる少女の背中を見つめながら、目を細めた。


「親の言うことをよく聞く、いい子だったよ。」


「ふふ。……新太さんなら、きっといいお父さんになれるわね。」


沙耶は新太の腕に手を回し、幸せそうに寄り添った。



路地裏で助けた少年。

公園で笑顔にした少女。


彼らは知らない。この優しい男が、かつてどれほどの罪を重ね、家族を傷つけてきたかを。


そして新太自身も知らない。


自分が蒔いたこれらの小さな「善意の種」が、いつか巡り巡って、自分と、自分たちが忘れ去った「家族」を繋ぐ糸になることを。



新太は、空を見上げた。

雲ひとつない青空が広がっている。


ただ、その眩しさが、なぜか少しだけ目に沁みた。



🔚 第57章・完

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