第56話

📘 第56章:紅(あか)い記憶


(過去を消すことが「優しさ」なら、

共に背負うことは「愛」だ。)



🔷【黒いクレヨン】


「……ガリ、ガリ、ガリ……。」

静まり返った地下室に、クレヨンを強く擦りつける音だけが響いている。


月陽(7歳)はここ数日、憑かれたように絵を描き続けていた。

だが、その絵は以前のような可愛らしい「おうち」や「お花」ではない。


真っ赤な背景。

その中心に立つ、長い髪の優しい女性。

そして、その背後から女性を飲み込もうとする、赤黒い、傷だらけの「影」。


「……月陽ちゃん?」


灯が心配そうに覗き込むと、月陽は手を止めず、うわ言のように呟いた。


「……パパじゃない。……こわいひと。ママをいじめるひと。」


灯の背筋が凍る。


月陽は思い出し始めているのだ。

優しかった「新太」というパパの皮の下に隠された、かつての凶暴な父親――山下泰輔(翔真)の本性を。

RE:CODEの処置を受けていない月陽の記憶は、成長と共に鮮明になりつつある。

その「赤黒い影」は、彼女の心の中で膨れ上がり、夜な夜な悪夢となって彼女を苦しめていた。



🔷【決断の時】


「……記憶処理をするべきだ。」

その絵を見た透也は、苦渋の表情で言った。


「俺たちにはRE:CODEのような完璧な技術はないが、薬を使って一時的に記憶を濁らせることはできる。……これ以上、あの子に地獄を見させるな。」

透也の判断は、リーダーとして正しい。


月陽はまだ7歳だ。父親が母親を殺したなどという事実に耐えられるはずがない。


「反対です。」


凛とした声が響いた。


灯だ。彼女は透也の目を真っ直ぐに見据えていた。


「記憶を消しても、恐怖は消えません。それは形を変えて、一生あの子を呪い続けます。……新太さんのように。」


「だが、じゃあどうする!? あの子に『お前の父親は人殺しだ』と教えるのか!?」

透也が声を荒らげる。


月陽を守りたいが故の怒りだった。

しかし、灯は引かなかった。


「教えます。……いえ、一緒に戦います。」


灯は、月陽が描いた不気味な絵を胸に抱きしめた。


「忘れさせるのではなく、受け止められるように支える。……それが、私たちにしかできない『教育』です。」



🔷【伝説へのプロポーズ】


「支えるって……誰がやるんだよ。」


カウンターの中で話を聞いていた紋之丞が、低いドスの効いた声で口を挟んだ。

かつて、警察はおろかヤクザ組織さえも手を出せなかった、伝説の暴走族総長。


その眼光は鋭く、纏う空気はピリついている。


「お前一人で、その重荷を背負うつもりか? あのガキの父親代わりと母親代わり、両方を演じるなんて無理だぞ。」


灯はゆっくりと首を振った。

そして、透也、佳乃、甲斐、そして紋之丞を見渡し、静かに宣言した。


「いいえ。一人ではありません。」


灯は一歩前に進み、紋之丞を指差した。


「私が、月陽ちゃんの母親になります。……そして。」

一呼吸置き、灯は高らかに告げた。


「紋之丞さん。……あなたが、父親になってください。」


店内が静まり返る。




紋之丞は眉間の皺を深くし、威圧的な視線を灯に向けた。


「……あ? 今なんつった? 俺は元総長だぞ。何百人もの荒くれ者を束ねてきた俺に、ままごと遊びの親父になれだと?」


「ままごとではありません。」


灯は一歩も退かない。


「月陽ちゃんには、どんな敵からも守ってくれる、絶対的な強さを持つ父親が必要です。……あなた以外にいません。」


「いやいやいや待て待て待て!!」


透也が吹き出しそうになるのをこらえ、ニヤリと笑った。


「おいおい、灯。……それ、まるでプロポーズだぞ?」

透也のからかうような言葉。


灯はキョトンとするどころか、さらに真剣な顔で頷いた。


「そうです! 結婚するんです!」


「「「はあぁぁぁぁぁぁ!?」」」


紋之丞、佳乃、甲斐の声が重なった。


灯は、呆然とする紋之丞に詰め寄る。


「形だけじゃダメなんです。中途半端な関係では、あの深い闇には立ち向かえません。……だから、私たちは夫婦になって、法的にも本当の家族になるんです。」


灯は紋之丞の顔を覗き込み、真っ直ぐに問うた。


「……嫌ですか?」


「……入籍だぞ? 俺の戸籍に入んのかよ。」


「はい。普通に、正式に手続きをします。逃げも隠れもしません。」


紋之丞は絶句した。


かつて数多の修羅場をくぐってきた男が、この天然な看護師の、狂気にも似た覚悟に圧倒されている。


「……ハッ。イカれてやがる。」


紋之丞は観念したように天井を仰ぎ、口の端を歪めて笑った。


「上等だ。……伝説の総長の嫁になるんだ、覚悟しとけよ。」



🔷【劇薬】


夫婦の契約は成立した。


だが、そこに「幸せな新婚生活」の空気はない。

灯はすぐに振り返り、メカニック兼医師でもある甲斐に向かって、冷徹な声で言った。


「甲斐さん。……あれ、まだ持っていますか?」


「あれ?」


甲斐が怪訝な顔をする。

灯の口から出たのは、看護師としてはあり得ない、禁断の言葉だった。


「**『ECHO誘発剤』**です。」


その場の全員が息を呑んだ。

それは、脳内のシナプスを過剰に刺激し、眠っている記憶やトラウマを強制的にフラッシュバックさせる劇薬だ。


RE:CODEが拷問に近い尋問で使用するものを、NOISEが解析・複製していたのだ。


「お前……本気か? 7歳の子供に使う気か!?」

甲斐が声を震わせる。


だが、灯の瞳に迷いはなかった。


「中途半端に思い出すのが一番危険です。……一度、完全に記憶を引きずり出し、私たち全員でその『悪夢』と戦って、克服させるしかありません。」


灯は、眠る月陽の方を見た。


「月陽ちゃんの中の『怪物』を殺すには、それしかありません。」


紋之丞が、無言で灯の隣に立った。

その手には、震える灯の手を包み込む覚悟が込められていた。


「やるぞ。……俺たちが受け止める。」


地下室の空気が、重く張り詰める。

これは治療ではない。

月陽の魂を賭けた、家族総出の「戦争」が始まろうとしていた。



🔚 第56章・完

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