第55話

📘 第55章:影の揺りかご


(太陽の下を歩けなくても、

愛は、暗闇の中でこそ強く育つ。)



🔷【地下のルール】


「ねえ、灯ちゃん。お外、いきたい。」


地下室での生活が始まって数日。

お絵かき帳に向かっていた月陽が、ふと顔を上げてそう言った。

その無邪気な一言に、店内の空気が一瞬で凍りついた。


カウンターでコーヒーを飲んでいた透也、PCを操作していた佳乃、そしてキッチンにいた紋之丞。

全員の手が止まり、視線が交錯する。


灯は、洗濯物を畳む手を止め、月陽の目線の高さに合わせてしゃがみ込んだ。

胸が締め付けられるような痛みを隠し、優しく諭す。


「月陽ちゃん。……ごめんなさいね。今はまだ、お外には行けないの。」


「どうして? パパがむかえにくるから?」


月陽の瞳には、疑いなど微塵もない。

彼女はまだ信じている。いつかパパが来て、またみんなで遊園地や公園に行けるのだと。


灯は言葉に詰まった。

「パパは来ない」とは言えない。かといって、「悪い狼がいるから」と怖がらせたくもない。


その時、助け舟を出したのは、意外な人物だった。


「……外は今、すげぇ嵐なんだよ。」

紋之丞だ。


彼は不機嫌そうな顔で、グラスを拭きながらボソッと言った。


「あらし?」


「ああ。子供が外に出たら吹き飛ばされちまうような、デカい嵐だ。……だから、それが止むまではここで我慢しな。」

苦し紛れの嘘。


けれど、月陽は素直に頷いた。


「そっかぁ……。じゃあ、しかたないね。」

月陽は少し残念そうに頬を膨らませたが、すぐにクレヨンを手に取り直した。

その背中を見ながら、灯の胸に、冷たい棘(とげ)が刺さった。



🔷【鏡の中の矛盾】


その夜。月陽が眠った後、大人たちは作戦会議を開いていた。


議題は**「月陽のストレスケア」**だ。


甲斐が廃材で作ったプラネタリウムや、佳乃が集めたアニメデータで、月陽の退屈を紛らわせるアイデアが出される中、灯はずっと俯いていた。


「……灯? どうした。」


透也に名を呼ばれ、灯はハッと顔を上げた。

その瞳は、揺れていた。


「……私たちがしていることは、正しいのでしょうか。」


「あ?」

紋之丞が怪訝な顔をする。


灯は、眠っている月陽の方へ視線を向け、絞り出すように言った。


「嘘をついて、真実を隠して、狭い箱庭の中で『幸せ』を与えようとしている……。これでは、結城維人が新太さんにしていることと、何が違うのでしょうか。」


その言葉に、全員が口を閉ざした。


新太は、辛い記憶を消され、作られた平和の中で笑っている。

月陽は、残酷な現実を隠され、作られた星空の下で笑っている。


「私は……新太さんの『偽りの幸せ』を否定して、ここに戻ってきました。それなのに、私自身が月陽ちゃんに『優しい嘘』をついている。」


灯は自分の手を強く握りしめた。


「これは……ただの欺瞞(ぎまん)ではないですか?」

重苦しい沈黙が流れた。

誰も反論できない。それは、ここにいる全員が薄々感じていた、しかし直視したくない「矛盾」だったからだ。


「……違いないな。」


沈黙を破ったのは、透也だった。

彼は否定しなかった。寂しげな笑みを浮かべ、煙草の煙を吐き出す。


「俺たちがやっていることは、あいつら(RE:CODE)の模倣だ。……否定はできねぇよ。」


「透也さん……。」


「だが、今はまだ『その時』じゃない。」

透也は灯の目を見据えた。


「いつか必ず、あの子に真実を話す時が来る。父親のこと、自分の名前のこと、世界の残酷さのこと……。だが、それは今すぐじゃなくていい。」

透也は、眠る月陽に視線を移す。


「今はまだ、あの子は守られるべき子供だ。……矛盾を抱えたままでも、俺たちが泥を被ってでも、あの子の笑顔を守る。それが、今の俺たちの『正義』だ。」


「……。」


灯は唇を噛んだ。

完全な答えではない。けれど、今はそれ以外に道がないことも分かっていた。



🔷【予感】


それからの日々、地下のアジト「琥珀」は、奇妙で温かい学校へと変わっていった。


甲斐が作ったプラネタリウムが、コンクリートの天井を満点の星空に変える。

月陽はその下で、佳乃が読み聞かせる物語に目を輝かせる。

紋之丞が作る特製オムライスは、どんなレストランよりも美味しく、月陽の笑顔を引き出した。

そして灯は、そんな彼らを見守り、月陽の服を縫い、髪を梳(と)き、夜には抱きしめて眠る。


灯は、月陽の枕元に置かれたスケッチブックを何気なく手に取った。

パラパラとページをめくる手が、ある一枚の絵で止まる。


「…………。」


そこには、女性の絵が描かれていた。

クレヨンで一生懸命に描かれたその女性は、沙耶(さや)ではない。


優しげな目元と、肩にかかる柔らかな髪。

それは、灯がよく知る、懐かしい女性――透也の妹、**光生(みつき)**の面影そのものだった。


「……光生さん。」


灯は震える指で、その絵を撫でた。


「月陽ちゃん……覚えているんですね。」

RE:CODEが記憶を操作しても、血の繋がりと、魂に刻まれた「温もり」までは消せない。

月陽は無意識のうちに、本当の母親を求め、描き続けているのだ。


(ああ……そうだ。)


灯の胸に、ある確信めいた予感が静かに宿った。

嘘は、長くは続かない。

この子の魂が真実を叫んでいる限り、私たちはいつか必ず、向き合わなければならないのだ。

そう遠くない未来――。


月陽に、残酷で大切な「真実」を伝えなければならない日が、確実に近づいている。

灯はスケッチブックをそっと閉じ、祈るように月陽の寝顔を見つめた。



🔚 第55章・完

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