第46話
📘 第46章:幸福という名の病
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(ここでは、笑顔こそが最大の「強制」であり、
悲しみこそが、唯一の「自由」だった。)
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🔷【モデルルーム「黒峰家」 – 朝】
「おはよう、沙耶。今日もいい天気だね。」
「おはよう、あなた。……ふふ、寝癖がついてるわよ。」
窓から差し込む、人工的な朝日。
清潔で、生活感のないリビング。
そこには、絵に描いたような「理想の夫婦」がいた。
新太(あらた)は、屈託のない笑顔でコーヒーを飲み、沙耶はエプロン姿で朝食を並べる。
かつて彼らの間にあった「不自然な緊張感」や「怯え」は、微塵もない。
部屋の隅で、その光景を記録する灯(ともり)だけが、異物のように立ち尽くしていた。
(……完璧すぎる。)
あまりにも明るい。
まるで、三文芝居のホームドラマを見せられているようだ。
けれど、これは演技ではない。彼らは心から、今のこの幸せを信じ込んでいる。
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🔷【消された「月」】
「そういえば、あなた。」
沙耶がトーストをかじりながら、首を傾げた。
その首元には、チョーカー型の新型デバイス『ECHO抑制機』が埋め込まれているが、彼女はそれをアクセサリーのように扱っている。
「昨日の夢でね……小さな女の子が出てきたの。」
灯の心臓が跳ねる。
月陽のことだ。
新太はキョトンとして、そして優しく微笑んだ。
「女の子? ……僕たちに子供はいなかったはずだけど。」
「ええ、そうね。でも、なんだか懐かしい感じがして……。」
「きっと、君が子供を欲しがってるからだよ。……仕事が落ち着いたら、考えようか。」
「ふふ、そうね。楽しみ。」
二人は顔を見合わせて笑った。
灯は、持っていた電子カルテを強く握りしめた。
爪が画面に食い込む。
(忘れてる……。)
あんなに愛していた娘を。命を懸けて守ろうとした月陽を。
彼らは「いなかったこと」にしている。
脳のデータを弄(いじ)るだけで、愛おしい日々は、最初から存在しなかったことになるのだ。
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🔷【灯の孤独な戦い】
「……白石さん?」
新太が、不思議そうに灯を見つめていた。
「顔色が悪いよ? 看護師さんが倒れたら大変だ。」
その瞳は、あまりにも純粋で、残酷なほど優しかった。
かつて「翔真」として苦悩し、灯に背中を預けてくれた男は、もうどこにもいない。
ここにいるのは、結城維人が作り上げた「最高傑作」――悩みのない、ただ幸せなだけの男。
灯は、こみ上げる吐き気を飲み込み、口角を無理やり上げた。
「……いえ。なんでもありません。」
「そうですか? ……ああ、そうだ。」
新太は屈託なく言った。
「いつも僕たちのケアをしてくれて、ありがとう。君のおかげで、僕はすごく幸せだよ。」
灯の心が、音を立てて軋(きし)んだ。
その感謝の言葉は、どんな罵倒よりも深く、灯の心をえぐった。
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🔷【隔離室 – 夜】
業務を終え、灯は自分の独房へと戻った。
監視カメラの赤い光だけが、彼女を見つめている。
ベッドに倒れ込む。
天井を見上げると、そこには何もなかった。
(……月陽ちゃん。)
灯は、枕の下に隠していた小さな紙片を取り出した。
それは、あの日、月陽が落書きしたメモの切れ端。
ただの線と丸だけの、拙(つたな)い絵。
でも、これが唯一の証拠だ。
彼らが家族だったこと。月陽という愛しい命が、確
かにここにいたこと。
(パパもママも、あなたのことを忘れてしまった。)
(でも……私だけは覚えている。)
新太がどれほど娘を愛していたか。
沙耶がどれほど苦しんでいたか。
灯は紙片を胸に抱き、声を殺して泣いた。
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🔷【決意の灯火】
泣き止んだ後、灯の目に宿っていたのは、以前よりも冷たく、鋭い光だった。
(結城維人。……あなたは人の心をデータだと思っている。)
(でも、消せないものがあることを……私が証明してみせる。)
いつか、外の世界で育った月陽が、私を迎えに来てくれるその日まで。
私はこの「嘘の楽園」で、真実の墓守(はかもり)になろう。
「……おやすみなさい、新太さん。……沙耶さん。」
灯は呟く。
それは、明けない夜を耐え抜くための、たった一人の宣戦布告だった。
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🔚 第46章・完
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