第3話

📘 第3章:支配者の眼差し



🔷 18歳・大学研究棟 深夜


研究棟の廊下には、人影ひとつなかった。


時計の針は、午前2時を指している。

静寂を破るように、スライドドアが開いた。


結城 維人(ゆうき いひと)、18歳。

顕微鏡を覗き込み、化学反応の経過データを確認しながら、ノートに淡々と数値を書き込んでいた。


「――結城維人くん。」


低い声が、背後から響いた。


ゆっくりと顔を上げると、研究室の入り口に男が立っていた。

背広を纏い、灰色の瞳に光を宿さないまま、じっと結城を見据えている。


「初めまして。私は榊原 廉也(さかきばら れんや)。内閣情報統制局、高等倫理調整課の課長をしている。」


男は淡々と名乗りながら、静かに名刺を差し出した。


結城は受け取ろうともしなかった。ただ、その男の顔を無表情に見返す。


「……何の用ですか。」


榊原は笑わなかった。

その瞳は氷のように冷たく澄んでいた。


「君の論文を拝読した。“記憶の選択的改訂による人格再構築理論”――

面白い考えだ。倫理的には破綻しているが、国家にとっては“希望”かもしれない。」


「国家?」


「そうだ。」


榊原は一歩、結城に近づいた。

光の角度で、銀髪混じりの短髪がわずかに揺れる。


「君は知っているだろう。

出生率の低下、社会インフラの崩壊、そして増え続ける犯罪者。

刑務所に入れたままでは、労働力は減り続ける。

だが――君の理論があれば、記憶を書き換え、人格を再設計し、即座に社会復帰させることができる。」


結城は無言で榊原を見据えたままだった。

やがて、静かに口を開く。


「……条件があります。」


「条件?」


結城の声は淡々としていた。


「僕の研究を、妨げないこと。

それを実現するための“設備”を用意すること。

そして――被験者は全て、僕の研究材料とみなす。

この理論を実証し、完成させるには、それなりの環境が必要です。」


榊原の口元がわずかに動いた。

笑みか、それとも冷笑か、判別できない。


「……安心しろ。

国家は、才能を殺すために呼ぶのではない。

“使い切るため”に呼ぶのだ。」


榊原は踵を返し、出口へ向かった。


スライドドアの前で、足を止める。

振り返りもせず、低い声だけが結城に届いた。


「君は、世界を変えたいのだろう?

ならば――君の手で、変えろ。私たちが“舞台”を用意する。」


結城はわずかに目を伏せ、呟いた。


「……違う。」


榊原は振り返らない。だが結城の声は、確かに届いていた。


「世界なんて変わらなくていい。

――僕は、人間を理解したいだけなんだ。」


時計の針は、午前2時4分を指していた。



🔷 20歳・内閣情報統制局 地下階


榊原に呼ばれたのは、20歳の春だった。


ビルの入り口で身分証を提示し、専用エレベーターで地下階へ降りる。

無機質なコンクリートの廊下。

白い光が整然と並ぶ天井灯を、無音で歩く靴音が響かせた。


廊下の突き当たりに、榊原が立っていた。


「来たか。」


榊原は無言で前を向くと、右手の静脈認証を行い、鋼鉄製の二重扉を開けた。


そこには、巨大なガラス張りの空間が広がっていた。


白いパネルフロア。

並ぶ検査機器、最新鋭の脳波解析装置、DNAシーケンサー、仮想記憶構築システム。

中央には、透明の隔壁で仕切られた被験者観察室が設けられている。


「……君の要求通りの設備だ。」


榊原は淡々と言った。


結城は一歩、足を踏み入れる。

壁面ディスプレイに表示される、数千人分の被験者候補データが目に入った。


「これが……」


「現在、収監中の重犯罪者データだ。」


榊原の声は変わらない。


「死刑確定者、無期懲役者、再犯性の高い重症犯罪者。

彼らを“君の理論”で矯正し、社会復帰させることが目的だ。」


結城は何も言わずに歩き出した。

まるで、ただ理論の補完パーツを探すように、ディスプレイを指で滑らせる。


「倫理委員会の承認はどうするんですか。」


「……君の口から、その言葉が出るとはな。」


榊原の口元がわずかに歪んだ。笑みとも冷笑ともつかない。


「心配するな。

ここは“倫理の外側”にある場所だ。」



🔷 記録改訂法、施行前夜


榊原の背後には、別の役人が立っていた。

黒いスーツに黒縁眼鏡の青年。

手元のタブレットで承認書類を確認している。


「主任研究官 結城維人、正式辞令を発令します。」


青年は感情なく読み上げた。


「あなたを、記憶改訂制度開発主任、およびRE:CODE研究所初代所長に任命する。」


青年の声が止むと同時に、ガラス越しに観察室の中が暗転した。


ベッドに拘束された男が一人。

筋肉質の体格、髭面、閉じた瞼の奥で微かに眼球が動いている。


結城は無言で立ち、操作卓に手をかけた。

指先で神経地図を展開し、抑制パラメータを入力する。


「……初期実験、開始します。」


操作卓が微かに唸った。


榊原は、その背中をじっと見つめていた。



🔷 榊原の独白(モノローグ)


(世界を変える?

いや――君のような男は、世界などどうでもいいのだろう。)


(君が見ているのは、“人間”そのものだ。

知りたい、理解したい、解体したい。

そうして、自分の空白を埋めるために。)


榊原の口元に、一瞬だけ微かな笑みが浮かんだ。


(だが、それでいい。

この国に必要なのは、感情ではなく結果だ。)



🔚 第3章・完

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