弟子を捨てた魔女の噺
湊川みみ@8/12『承香殿〜』発売
弟子を捨てた魔女の噺
少し前に、弟子を捨てた。
あの日、私が彼を拾ったのも気まぐれなのだから、気まぐれに捨てたって構わないだろう?
可哀想だの、無責任だの、
魔女とは元来、ヒトのせせこましい定めの外で生きる、自由で勝手なイキモノなのだから、人間の倫理観で測れると思う方がどうかしている。
むしろ、私の旧い友に言わせれば、『よくもまあそんなに長く気まぐれが続いたもんだ』と驚かれるような話だった。
そうだ。彼を拾ったのは、ただの気まぐれだった。
あの日の私は、二つ隣の山の古なじみの魔女から賭け金を巻き上げたところで、たいそう気分が良かった。
だから、魔が差したのだ。魔女だけに。
ちょうど懐も温まったことだし、目の前で震えるやせっぽちの哀れな子どもに、気前よく施してやろうじゃないか、と思ってしまった。
あれは断じて『慈悲』なんかじゃなかった。ただの『気の迷い』と呼ばれるものだったのだ。
子どもの体から人間にいたぶられたらしい痕を消すのは、三日のうちに済んだ。
これでも旧き魔女だもの、私の薬はよく効くのだ。中でも秘蔵の軟膏を、惜しげもなく塗りたくってやったとも。
今じゃ、痕一つ残さず綺麗なものだ。
肌の傷とは違って、世の中の汚いものばかりを見てきたかのように他者を拒絶する瞳の方は、元の輝きを取り戻すまで思いのほか時間がかかって、随分手間を取らせてくれた。
私は、本来守るべきだろう幼い同族を壊した愚かしい人間たちに、まったく余計な真似をしてくれたと苛立って、怨嗟の声を上げて――半ば意地になって、彼に話しかけ続けた。
私自身に覚えはなくとも、きらきらとした瞳の人間たちはこうして和やかに身を寄せ合うものなのだと、私は見聞きして知っていたからね!
私は何でも知っているとも、なにせ、私は『知の泉』と称えられる旧き魔女なのだから!
おまえにはこれでも上等だろうと、ありあわせの材料で作ったシチューを子どもに振る舞った夜、彼の深皿が初めて空になったから。
皿が空になってそれっきり、彼は美味いとも不味いとも言わなかったけれど、何でも知っている私の前で、子どもごときが心をごまかせるはずもない。
私は『ずいぶん安上がりな人間め』と笑って、それ以来、シチューは私の得意料理になった。
私が使い魔の蝙蝠に餌をやっていると、彼は物陰から羨ましげな顔で見てきたから。
私は魔力を多めに使って、その時私が呼べるかぎりのイキモノを――手近にいたカエルやイモリを差し出すと子どもは眉を情けなく下げてしまったから――召喚してやった。
感謝するがいい、世にも珍しい魔女の大盤振る舞いだ!
彼は、その中でも特に一角獣が気に入ったようで、いつまでもたてがみをさわさわと撫でていた。……絶対にカエルやイモリの方が従順で可愛いと思うのに、あんな偏屈で気性の荒い馬のどこがいいのか。毛が生えているところだろうか。子どもの考えることはよくわからない。
まあいいさ、同じ失敗などするものか。
私は、一度物事を覚えてしまえば忘れることのない優秀な頭脳の端っこに、子どもについて気づいたことを書き留めることにした。
だから、私は、彼の七つの誕生日に――正確には私が五歳くらいの見た目に見えた彼を拾ってからきっかり二年経った日のことだが、人間は『誕生日』を祝うのだろう?
だから、その日が彼の『七つの誕生日』だ。私がそう決めたんだから、それでいい!
ともかく彼の誕生祝いに、私は、生まれたての仔一角獣を贈ってやった。
魔女は七つになれば、使い魔を持つものだからね。使い魔として人気なのは黒猫や鴉や梟、それに蝙蝠あたりだが、一角獣でも悪くはあるまい。まあ、この仔一角獣も全然私には懐かなかったのは、いささか面白くなかったが。
「ありがとう、師匠! おれ、師匠の跡を継いで、師匠みたいな……ううん、師匠よりすっごい魔法使いになるから!」
その言葉を聞いた時、私は……まあ、少しくらいは、胸にじわりと感じるものがあったと、今は正直に述べておこう。
私は威厳ある旧き魔女だもの、その場ではもちろん、感動を言葉にすることはなく、生意気だぞ、と、彼の林檎のような頰をつついておいた。
笑って身をよじって逃げる彼はすっかり、どこにでもいる腕白な少年という風情になっていた。
『すごい魔法使いになる』だなんて、大口を叩いたくせに、あの子にはさっぱり魔法の才能がなかった。
旧い言語で構成された長ったらしく巻き舌の発音の呪文は、もれなく噛む。レシピに従うことが大原則な魔法薬作りに欠かせない繊細さも、あの子はごっそり欠いていた。
おまえにはまるで魔法使いの適性がないよ、と告げた時、彼はそれまでで一番落ち込んだようで、しょげ返っていて、肩を落として泣きそうな顔をしていた。
そんな顔をされたって、向いていないことは早くにやめさせた方が身のためだ。魔女は実力主義なんだ、旧き魔女たる私が可哀想だと思うはずも……いや、彼が一生懸命頑張っていたのは分かっているぶん、これで見捨てるのも忍びないが……いやいや、魔女は合理的なイキモノなんだ。私は心を鬼にして――。
――気づけば、彼のために魔剣を鍛えてやっていた。
材料には三百年ほど前の魔女集会で、南の大陸に棲む魔女と交換した希少な鉱物を使ってある。
ヒトには溶かすことすら不可能なそれを、何度も叩き鍛え、剣に成形し、私の魔力を注ぎ込み、鞘や柄には私が昔に倒した竜種の鱗をふんだんに飾った。
この魔剣は、私の魔力を超える魔力を纏ったもの以外、打ち合ったものを切り刻む。見た目も華やかで美しい。
ふふん、どうだ、なかなか立派な剣じゃないか? 私の手による逸品なのだから当然のことだがな。
ちなみに、七日間飲まず食わずで作っていたせいか、私には魔剣完成直後の記憶がない。魔力不足と体力切れで倒れてしまったのだろう。
旧き魔女にあるまじき無様なところを見せてしまった、とは今でも思っている。
それでも、目が覚めたときに、私の顔を覗き込む彼の泣き出しそうな顔と、差し出された粥らしきものと、私の身体を包む分厚い敷き布――私を寝台まで運ぶことはできなかった彼のそのときできる精いっぱいの気遣い――を見た時、私は微塵も後悔など覚えなかった。
慣れないことでも、彼のためにしてよかったと満足した。……ああ、でも、彼には泣かれてしまったな。
『魔法が使えなくてもこれさえあれば、振り回すだけで身を守ることはできる。だからこれもあげたかったのだ』と言うと、彼は「師匠のばか!」と怒って、泣いた。
私にはどうして彼が泣いてしまったのかわからなくて、おそるおそる、長時間動かずにいたせいで固まった腕でぎこちなく彼を抱え込んで、背中を撫でてやった。
そうして、いいかげんな節をつけて歌を歌ってやると、彼はすぐに眠りに落ちてしまうんだ。それだけは彼を拾った時から変わらなくて、彼の健やかな寝息を聴きながら、まだまだ子どもだなあ、と私は口角を引き上げた。
幸いにも彼には剣の才能はあったようで、それは私にとっても、おそらく彼にとっても、喜ばしいことだった。
それまでどこか所在なさげに、居心地悪そうにしていた彼が、やっと居場所を定めたようだ、と思った。
彼のおかげで、食も薬の調合も、材料に困らなくなった。
育ち盛りの子には、もっと動物性たんぱく質が必要だったのかもしれない。私はとっくの昔に贅沢もし尽くしたものだから、質素な隠遁生活に満足していたのだけれど、彼をそれに付き合わせるなんて、悪いことをしてしまった。
そう思って、私が珍しく自分から頭を下げたというのに、彼は笑って言った。
「師匠が怒りっぽいのも、疲れやすいのも、どーぶつせいたんぱくしつが、足りないんだと思ってさ。まっ、心配すんなよな。師匠が足腰立たない、よぼよぼのお婆ちゃんになっても、俺が守ってやるから!」
一丁前の口を叩いた彼に、私は笑って――彼の頰をぎゅむぎゅむと容赦なく捏ねあげた。
まったく、この子ときたら! 生意気だぞ!
ともかく、小さな騒動は絶えずとも、彼は次第に、私に守られるだけの幼子の域を超えてきた。かけがえのない、私の生に深く関わる『仲間』――そんなものを得たのは、私の長い生の中でも初めてのことだった。
しばらくすると、私では彼の相手は務まらなくなって、彼の剣の才能がヒトの中で際立っていることは、門外漢の私にも察せられた。
私は、彼にできるだけのことをしてやりたかった。彼は、私にとって唯一の、大切な『仲間』だから。
「ねえ、引っ越そうか。……私の都合で、人が少ない郊外の街にはなると思う。人の輪の真ん中に連れて行けないのは、先に謝っておく」
人間の輪から弾かれた人間で、確かな剣の技量があって、品行方正な人間を、彼のために手配しよう。私や私の友は、最近の事情には疎いから、他のヒトの手を借りるのはやむを得なかった。
老けない私は、人に合わせて歳を取るふりをしないと怪しまれてしまうだろうから、そこは少し厄介だけど……まあ、それくらいは致し方ない。愛弟子のためなら骨も折ろう。
「え? そんなの、しなくていいよ」
私の提案に彼は喜ぶと思ったのに、どういうわけか、彼は浮かない顔をしていた。
……どうして? おまえは、人間でしょう? 人間は、人間と暮らしたがるものでしょう?
「同族ってだけでそんなに喜べるかっつーの。それよりさ、人間なんかに近づいて、師匠がなんか嫌な思いでもしたら……あっ、いや、今のなし! 師匠がほら、人間とトラブルになって相手を半殺しにして、騒ぎでも起こしたらさ! 住みにくくなるだろ!」
「……へえ? 言うじゃないか」
生意気なお口はどこかなあ?
私は、彼の口を指でつまんでやった。
いひゃい、いひゃい? わざと痛くしてるんでしょうが、この、バカ!
「そうかそうか、マナー教師も入れようか。残念だったな。おまえも知っての通り、私は意地が悪いんだ。おまえがそんなに嫌がるなら、絶対に人里に住んでやるし、人間のふりを完璧にしてやろうじゃないか」
「えぇ……」
「設定はどうしようか。療養に来た令嬢と使用人? それとも……」
「うわぁ……この師匠、ノリノリだ」
いちいち素直じゃない合いの手を入れてくる、このクソガキは、本当にどうしようもないやつで。
「うそうそ、姉弟が無難だな。任せろ。『おまえの姉ちゃん、すごく美人で賢くて優しくて最高だから紹介してくれよ!』って言われるような姉を、完璧に演じてやろう」
「いや、そんなこと言うやついないだろ」
「うるさい! 設定のディテールはいいんだ! ……ともかく、そういうことだから!」
私は、魔女らしい余裕綽々の笑みを浮かべて、びしりと指先を突きつけた。
「ちゃんと人間の友達を作れ」
私のクソガキは、どうしようもなく、優しくて。
――後から思えば、彼を捨てると決めたのは、この時だ。
魔女と人間とは、違うイキモノだ。
ただ生きる時間が違うだけではなくて、生きる世界が丸ごと違って、永久に交わることはない。
人間は魔女を恐れ、魔女は人間を恐れる。
快楽のために人間を嬲り殺し、人間同士を殺し合わせて、国をひとつ滅ぼした悪辣な魔女のことを、私は知っている。
何の悪事もなさない魔女を捕らえ、八つ裂きにして、死にきれず蘇生するたびに繰り返し殺した残忍な人間のことも、私は知っている。――私は『知の泉』たる全知の魔女だから。
人間と魔女とはいがみ合っていて、いつ全面戦争の火種が蒔かれるともしれない状況なのは、常人の目にも明らかなことだった。そして、その緊張と焦燥は、敵に対してよりも、しばしば『裏切り者』の同族に対しての方が、いっそう苛烈に牙を剥いた。
わかるだろう?
『師匠が嫌な思いをしたら』なんて、人間より魔女のことを思いやり、魔女に親しみを抱くような人間など、いてはならないんだ。そんな人間は、やっぱりどこかおかしいのだ。
そんな人間はこの世界では生きづらくて仕方がない。……私が、彼の人生を狂わせてしまった。
でも、彼は子どもだから。幼いから。
私よりも弱いから。私に危害を加えられそうもないから。守り手を必要としているから。
だから、もう少し。もう少しだけ、一緒にいても――。
「あんたさ、引き延ばせば引き延ばすほど、別れが辛くなるの、わかってる?」
どうしたって、いつかは置いていかれるのに。のめり込むのも大概にしなよ。
二つ隣の山に棲む旧い友は、呆れたような、憐れむような顔をしていた。
――私は魔女らしく身勝手で、最後まで『彼のため』という美しい嘘を取り繕うことすらできなかった。
結局、私は、私のために、彼を縛りつけて、人間としての彼を壊してしまった。
それでいて、彼がその生の終わる時まで私の側にいてくれたとしても、いずれは別れがきて彼を失うということ自体に耐えられなかったのだ。
『彼を捨てる』という決意の最後の一押しをしたのは、そんな自分勝手な理由だった。私は、私の傷が浅くなるように、彼を失う前に、自分から捨ててしまおうと思ったのだ。
ああ、どこまでも自分本位の、魔女らしい生き様!
きっと、本当は『師匠の跡を継ぐ』と言われた時に、その嬉しい未来は訪れないと告げるべきだった。
きっと、本当は『よぼよぼになった師匠を守る』と言われた時に、そんな優しい夢を見せるなと窘めるべきだった。
私と彼とは生きる時間が違っていて、私は老いることがなく、彼は『よぼよぼになった私』を見られないし、私は『私の跡を継いだ彼』を見られない。
あの時に感じた、弾けて湧き上がるような温かな歓喜と、胸を締めつけるような深い絶望を、きちんと言葉にしていればよかった。
――だから、私は彼を捨てることにした。
笑ってくれ。
おまえはあれだけ見下していた、彼を傷つけた人間の屑と同じことをするのだと。おまえは酷いやつだと責めてくれ。
分かっているよ、認めるよ。
それでも、こんな人間みたいな感情が、これからもっと育ってしまったら、私にはきっと抱えきれなくなる。
きっと、これだけ尽くしてきたから、私が満足するまで側にいてくれてもいいはずだ、なんて果てのない見返りを求めてしまうようになる。
冗談じゃない! 私が彼のためにしたことなんて、今までの彼の笑顔で十分に……ううん、笑顔でなくて泣き顔も怒った顔も、全部全部好きだった。彼が今まで一緒にいてくれたことだけで、売りつけた恩なんてとっくに贖われているんだ。
これ以上を求めるのは、『取引』じゃなくて『妄執』だ。何の約束もない関係を築くのは不安定だ。……いつ壊れるかも分からないものに頼って生きるなんて、怖い。
人間よりもずっと長い生を生きるイキモノが、人間らしい感情なんて持ってしまったら、耐えられなくなる。その場の感情の赴くまま、刹那のような生を生きる……そんな儚く、潔く、美しい生き方はしたくない。私にはできない。私は人間にはなりたくない。
私は魔女だ。人間を遠くから冷笑して、泰然と悠々と生きていきたいのだ。人間の執愛など、呪いと一緒だ!
今ならまだ、間に合う。
私も――彼も。
今ならば、私の傷は浅く済んで、彼は人間の輪に戻ることができるだろう。
人間の街で数年暮らして、彼が戻りたいというから、黒い森の魔女の棲み家に戻ってきた。
彼の言葉に人間よりも魔女が選ばれたような気がして、密かに心の底で喜んだ自分が許せない。彼は人間だ。そして、私の大事な仲間なのだ。彼のためを思うなら、私はしれっと素知らぬ顔で、彼だけ街に置いて帰ればよかった。
『やっぱりこっちの方が落ち着く』なんて、折に触れて言わないでくれよ。君の帰るべき場所はここじゃない。
「久しぶりに歌でも歌ってやろうか?」
「どうしたんだ、急に」
「……いや、なんだか、昔が懐かしくなって」
戻ってきてから別にした彼の寝室に押しかけて、子守唄の押し売りをした。当たり前のことだが訝しまれて、眠らせるには眠りの魔法をかけるしかないか、と思った。容易いことだが、それはしたくないな、と思ってしまった。
ああ、ほら、まただ。
昔の私ならそんなことは思わなかったのに。彼がいると、私は合理的で冷徹な魔女にはなれなくなる。
だから、彼を捨てようと思ったんじゃないか。知らずと噛み締めた奥歯が、ぎりりと鳴った。
「あのとんちんかんな歌が、懐かしく? ……まあ、師匠の歌声は嫌いじゃない……好きだけどさ」
そう照れたように返された時の喜びも、私は知らないままでよかったのに、私の声は飼い主にやっと構ってもらえた犬のように弾んでいて、自分のわかりやすさが嫌になる。
「そうか、そうか! 遠慮せず、何曲でも聞くといい!」
「……なんか、変なの。おやすみ。また、明日」
私の子守唄を聞けば、彼はすぐに眠りに落ちてしまう。そんなところも、出会った頃と何ひとつ変わっていない。
この狭くて小さな魔女の棲み家には、似たようなささやかな思い出が至る所に詰まっていて、ひとつひとつ、目で追って数えてしまう。
さて、彼を捨てるならどこにしようか。善き人の中に戻してやりたい。間違っても、誰も彼に害を加えないような、悪い人も悪い魔女もいないところ。
彼は、バカで、賢くて優しい、私の自慢の弟子なのだ。きっと、人にも愛されるだろう。彼を真っ当に愛してくれる人がいるところがいい。
ここから遠い、明るく、美しい人間の街がいい。彼に綺麗なものを見せてやりたいから。
彼の使い魔の一角獣も彼に連れ添ってくれたら嬉しいが、あの馬もどきは知能が高い一方で、私の言うことを聞かないから、どこまで従ってくれるかな。後で声をかけておこう。
この剣も持たせてやりたい。大魔女の鍛えた剣だから換金すれば結構な金になる。それは彼をきっと助けるだろう。
彼のそばに、私のよすがを残したいだけ――違う、違う! 本当はずっと持っていてほしい、違う! いっそモノの価値もわからぬ質の低い店に、二束三文で売り払ってくれればいい! 金目当てに叩き売られたら、この揺らいだ情けない心も、思いきることができるだろうか。
私は、彼を捨てるのに。彼を捨てた人間と同じところまで堕ちたのに。
そんな自分勝手な行動に、どうして涙が溢れるのだろう。
私がしたくてしたことなのに、私には泣く資格なんてない。後悔なんて全くしていない。
魔女らしく、清々したと高笑いの一つでも浮かべろ。他人の都合に振り回されない、自由な一人に戻るだけだ。
……それなのに、『戻る』なんて思えなくて、大事なものを『喪った』と思ってしまった。
いつのまにか、彼は私の傍にあるのが当たり前の、大事なものになっていたから。
私は全知の魔女だ。でも、私は本当に馬鹿だった。
『当たり前』なんて、あるわけなかったのに。いつ終わってもおかしくない奇跡みたいな日々が明日も続くと、根拠もなく信じていた。
おやすみ、私の愛し子。君と見る『明日』は永遠に訪れないだろうけれど――……。
「大好きだよ。君に幸福がありますように」
私は彼の額に口づけ、転移させた彼の姿は、私の目の前からかき消えた。
――それが、今からほんの少し前、十年ちょっと昔の話。
まさか、あれからほんの数年で、人間たちがこれほど勢力を伸ばすとは思っていなかった。
黒い森の北方が少し騒がしくなったと思っているうちに、彼の国では国王が代わり、たいそう戦上手だという国王は、黒い森にも構わず攻め入ってきた。どうやったか知らないが黒い森の四方を取り囲む国々まで巻き込んで。
身の程知らずの思い上がった人間たちを私がいくら蹴散らしてやったとて、魔女の中には戦に向かない者もいる。次第に彼女たちが捕えられ、姿を消していく中で、侵略者が『全知の魔女を望んでいる』と噂に聞けば、私にできることは一つしかなかった。
「私は、同朋たる魔女の無事以外に何も望まない。おまえは私に何を望む? 全知の魔女の力を欲していたのだろう?」
降伏と同朋の助命嘆願。それと引き換えの協力の申し出。
自ら姿を現した私に、人間たちは色めきたって、その場で最も偉い人間の前に私を引き立てた。
人間にしてはかなり背丈の高いその男は、私をじっと睨みつけて地を轟かすような低い声で言う。
「あなた自身の望みはないのか」
「我が生に悔いなどあるものか。さあ、早く誓え。私の気が変わらぬうちに済ませるのが、おまえたちの身のためだぞ」
こちらに示すように、人質となった魔女たちを盾のように前に立たせているのが目に入らないとでも?
魔女の誓約は、破った者に死の罰を科す。私が協力する代わりに、捕まった同朋を解放させれば、彼女たちが脅かされることはなくて済む。
「……あなたが取引のできる立場とでも? 魔女を捕えるのにどれだけの手数をかけたとお思いか。彼女たちを見逃す利が、こちらにはない」
「私は全知の魔女だ! こわっぱの魔女を百人集めるよりも私は多くのことを知っている! 私の方が価値があるんだ、その私の力をどう使っても構わないと言っている! それなら、どうだ!?」
「……相変わらず優しいな。分かった。あなたに誓おう。あなたの同朋の魔女は見逃す。その代わり、あなたの全てを我が物にしたい」
「いいだろう。ここに誓約は成った。……ふふっ、かかったな!」
「は?」
同朋たちが解放されたのを見てとって、私は仕掛けておいた魔法を発動させた。
目の前の男のぽかんと口を開けた間抜けな顔は、思いのほか幼く見えて、敵対する人間だというのに、少し愉快な心地がした。
「私は、私の魔力を封じる。私の知識を他者を害することに使うことを禁じる。私の手は他者に触れると力を失い、何かを傷つけることはできない! ふははっ、残念だったな! 魔女は誓約を破ることはできないが、私の力が無くなれば、私を手に入れたところで意味があるまい!」
考えたのだ。戦上手な国王は、いずれ人間同士でも争って、他の人間も傷つけるようになる。大方、戦を上手く進めるための知識を求めて、全知の魔女を探していたのだろう。
もしもその中に、これから私の力を使って傷つけられる人間たちの中に、あの子がいたら嫌だなと思った。だから、私は自分の力も知識も捨てた。
これでは『全知の魔女』の名折れだが、悔いはない。この後、当てが外れて怒り狂った人間に嬲り殺されるとしても。
「おまえが手に入れたのは、私の残り滓だ! 全く無価値の――」
「嘘だろ? こんなことがあっていいのか!? 俺にとって都合が良すぎる!」
「……はあ?」
ぎゅむ、と温かいものが触れた。何なら、私の全身を包み込んだと言った方が正しいか。……大きな男に、抱きしめられている。ついさっきまで敵対していたはずの、人間の男に。
いや、何故だ!?
「師匠師匠師匠師匠! ああ、ようやく会えたっ!」
「え……」
ぎぎ、と音がしそうなほどぎこちない動きで見上げれば、こちらを見下ろす満面の笑み。
ものすごく嬉しそうに私を見る顔は精悍で、いかにも人間の女たちに持て囃されそうだけれど――それよりどこか、私の見知った面影があって。
「まさか、たった十三年と百日と三時間二分五秒で忘れたりしないよな? 師匠は全知の魔女なんだから!」
「えっ、あの……」
「でも師匠はとぼけたところもあったから、どうかなあ? 俺が気持ちよく寝てる間に、勝手にポイ捨てしてそれっきりとか、薄情なところもあったしな。俺のこと、どうでもいいと思ってないとそんなことしないよな。今だって覚えてない感じだし、とっくに忘れてるか」
「わ、忘れてない! 忘れたことなんかないっ! あれは、良かれと思って、人間のところに戻してやろうと……」
「良いわけないだろ、ありがた迷惑にも程がある。そんなに人間からズレた感覚のくせに、良かれと思ってやるな」
「あ、はい……ごめんなさい」
怒られた。激情のままに、というよりも、どうしようもないやつを前にして、呆れ果てたような冷たい目で怒られた。
まったく、そんな子に育てた覚えは……いや、一緒に暮らしていた頃から、ちょくちょく呆れられてはいたか。
「こんな状態の師匠を一人暮らしをさせて、誰か悪い人間に騙されやしないかと心配だったが」
「むっ! 私を誰だと思っている! 大魔女だぞ、全知の魔女なのに騙されたりなんかっ!」
「――おい、フォーレン。師匠に変な男は寄りついてないということでいいのか?」
「師匠を無視するのかっ!?」
もはや、話もしてくれない。反抗期か!?
涙目になっていると、群衆を割ってとことこと進み出た角のついた馬もどきが、呆れたように見える表情をした。
『えーっ、聞かなくても分かるでしょ。こんなしょうもない女のことを好きになるの、アーベルくらいだよ』
表情だけではなく本当に呆れられていた。大魔女なのに、弟子の使い魔にまで!
というか、一角獣って、思念を頭に送る形式で喋れたんだ。そして結構俗っぽい喋り方をするんだ。全知の魔女なのに、知らなかった。
「……というか、アーベルが、私を、好き?」
「おお、師匠にしては鋭いな。本当は十三年と百日と三時間十五分三十秒前の時点でも気づいてほしかったけど」
私のことをすっかりなめくさって、すごいすごいと頭を撫でてくる弟子。
ちょっと背丈が伸びたからって調子に乗っているようで、むかついたから、彼の胸をぐいと押しやって遠ざけようとしたけれど、なぜか腕に力が入らない。
「好きだよ。子どもの頃から、ずっと。師匠の悪ぶっているけど優しいところも、他人のために一生懸命なところも」
「あれ? なんで? 私の手、おかしい……」
「後先考えないアホなところも含めてね。さっき『攻撃のために他者に触れると力を失う』という誓約を立てただろう。可哀想に、師匠は、俺を拒むすべを失ってしまった」
「え!? 私、そこまで捨てるつもりじゃ……っ!」
「魔女は誓約を破れない。もう取り返しがつかないくらいに無力だね」
ぽかぽかと彼の頭を殴っているつもりなのに、力が入らないせいで『じゃれつく猫みたいだ』と笑われてしまう。
悔しい。それに……怖い。今の私は、目の前のアーベルよりもはるかに弱い存在ということになる。
その不安を見透かしたみたいに、彼は、私の手をとった。
「大丈夫。師匠のことは、大事に大事にするから。師匠が俺を守ってくれたみたいに、これからは俺がずっと師匠の隣にいる。俺、結構強いんだよ。師匠がくれた魔剣と、相棒のフォーレンと、師匠がくれた知識のおかげで、人間の中では結構偉い仕事にも就いたんだ」
「そうなのか?」
「うん。師匠の一人や二人くらいは、それに、師匠が許してくれるなら家族がもっと増えたら俺は嬉しいけど、自分の家族くらいは養えるよ」
「その気持ちは嬉しいが……私は魔女だし。私が人間の中で生きるのは難しいよ」
彼と森を出てから数年間の暮らしで思い知っていた。
弟子の厚意はありがたいが、と断ると、私の手を掴んだ手にぐっと力が込められた。
「大丈夫。誰も文句を言うやつなんていないから」
「だが」
「大丈夫。文句なんか言わせないから」
そうだよな、とアーベルが周りの人間に視線を送ると、彼らはびくりと飛び上がって、『その通りですとも、陛下!』と唱和していた。
どういう関係なのかと聞いたら『俺の友達だよ、師匠が人間の友達を作れって言うから』とのことで。
一言一句同じことを皆で声をそろえて言うなんて、よほど気が合うのだろう。仲が良さそうで何よりだ。
「……そうか。友達ができたのか」
感慨深い。アーベルにはいろいろと言われてしまったが、やはり、あの時に彼を人間のもとに戻したのは間違っていなかったのだろう。私は、過去の私の選択を褒めたくなった。
彼は人間とも関わり、人間にも受け入れられた上で、魔女の私のことも懐に入れようとしているらしい。それなら、もうアーベルのことは心配ないか。
「でも……私たちは生きる長さが違うから、アーベルが死んでからも永遠に生きるのは、私の方が耐えられない」
「は? そんなの、俺が許さないけど? 俺が死ぬときに師匠がまだ全然ピンピンしているようだったら、俺は魔剣で師匠の首を刎ねてから死ぬよ」
「え、私が作った魔剣で? 私の首を? 刎ねる?」
「うん。今の師匠は魔力を失っただろ。だから、普通に魔剣は効くし、師匠のか細い首は一刀両断できる」
「そうなんだ……?」
できれば俺が魔女並みの寿命を得る方法を探したいけどね、と当たり前のように続けられたから、そういうものなのかな、と受け入れてしまったが、何だかすごいことを言われたような気がする。
ただ、まあ、一応、私の懸念は綺麗さっぱり解決したので。
「分かったら、今日から俺の家に引っ越そうね。師匠のために魔法薬の調合部屋や使い魔の飼育部屋も作ったんだ」
「用意がいいな! 気の利く弟子を持って助かった!」
「うん。師匠に追い出されてからずっと、いつか迎えようと思って準備してたからね。あ、寝室は俺と一緒だけど、いいよね?」
「十分だ! 私は床でも寝られるぞ!」
アーベルはまだ若いのに、そんなに何部屋もある屋敷を手に入れるなんて、かなり仕事を頑張っているらしい。
昔は彼と一緒に寝ていたわけだし、それでいいよ、と頷くと彼は嬉しそうに笑った。
「そうか、よかった。あちらの家に全部揃ってるから、手ぶらでも問題ないと思うけれど、必要な荷物があるなら、この後、一緒に取りに行こう?」
「えっと……アーベルが昔、私にくれた絵とか工作細工とか、持って行ってもいい? 荷物になるなら、やめておく」
「っ、俺の、別れてからもずっと大事にしてたの……!? いいよいいよ、取りに行こう!」
「いいのか! ありがとうっ!」
私を抱えたまま一角獣にまたがるアーベルに、というよりもその腕の中の私に向かって、一角獣がめちゃくちゃ嫌そうな顔をしたのが見えた。なんだこいつ、私も乗った分だけ多少重くなるかもしれないとはいえ、使い魔のくせに相変わらず生意気だな!
それとは対照的に、周りの人間たちは皆にこやかに微笑んでいる。季節は冬だというのに、なぜか皆、額にすごい汗をかいているけれど。戦闘職種だけあって、よほど代謝がいいのだろうか?
「はあ、俺の腕にすっぽり納まって可愛すぎるっ! あの頃は大人っぽく見えたのになあ……よかったぁ、黒い森の焼き討ち作戦をまだ決行してなくて。家にある師匠と俺の思い出の品が焼けたら俺も悲しいし、師匠も怒りそうだもんな」
頭上で何かが聞こえたが、私の頭は『家の中のどの思い出の品を持っていこうか』の検討に占められていた。
完
弟子を捨てた魔女の噺 湊川みみ@8/12『承香殿〜』発売 @mimikaku
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