第8話 安居酒屋のビール



 その店の引き戸を開けた瞬間、タバコの煙と喧騒、そして焼き鳥の脂っこい匂いが鼻をついた。


 駅のガード下にある、赤提灯がぶら下がった安居酒屋だ。


 かつての俺なら、スーツに匂いがつくのを嫌がって絶対に入らなかっただろう場所だ。


「すまないね。本当はもっといい店に連れて行きたかったんだが……まだ、贅沢はできないから」


 向かいに座った義父が、申し訳なさそうに肩を縮める。


 十年前に比べて随分と老け込んだ。

 白髪は増え、背中は少し丸くなった。

 だが、その顔つきは憑き物が落ちたように穏やかだった。


「構いませんよ。場所なんてどこでもいい」


 俺はジョッキを持ち上げた。

 中身は発泡酒だか第三のビールだかわからない、薄い黄金色の液体だ。


「……完済、おめでとうございます」


「ああ……ああ、ありがとう。君のおかげだ」


 グラスを合わせる。

 カチン、と安っぽい音がした。


 俺は一口、それを喉に流し込んだ。

 キンキンに冷えている。炭酸が喉を刺激する。


「…………」


 ――なんだ、これは。


 俺は目を見開いた。


 美味い。

 異常なほどに、美味い。


 かつて俺は、結婚する前に美鈴の金で高級フレンチのフルコースを食べたことがある。

 ヴィンテージのワイン、フォアグラ、トリュフ。確かに舌がとろけるような味だった。


 だが、今のこの一杯の「薄いビール」がもたらす充足感は、あの時の高級ワインを遥かに凌駕していた。


 十年間の重圧から解放された安堵感。

 成し遂げた達成感。

 それが最高のスパイスになっているのか。


「……君には、本当に苦労をかけた」


 焼き鳥の盛り合わせをつつきながら、義父がポツリと言った。


「一千五百万。それに十年の歳月。君の人生の一番いい時期を、私の尻拭いに使わせてしまった」


「投資ですよ。回収はこれからです」


「いや……もう十分だ」


 義父は箸を置き、居住まいを正した。

 そして、俺の目を真っ直ぐに見て言った。


「君はもう、自由になりなさい」


 俺はグラスを止めた。

 店内の喧騒が、遠のいた気がした。


「借金は終わった。会社もなんとかなる。……だから、美鈴と離婚して、君自身の人生を歩んでくれ。これ以上、君のような優秀な男を、泥舟の船頭にしておくわけにはいかない」


 義父の声は震えていた。

 本心からの言葉だった。


 俺への感謝と、娘への愛情、そして何より俺の幸せを願うがゆえの「解雇通告」だ。


 十年前、俺が喉から手が出るほど欲しかった言葉。

 損切りをして、自由になる許可証。


 だが。


 俺の中で湧き上がってきたのは、喜びではなく、猛烈な腹立たしさだった。


「……お義父さん」


「なんだい」


「ふざけたこと言わないでください」


 俺はジョッキをテーブルに叩きつけた。

 ドン、と大きな音がして、隣の客が驚いてこちらを見た。


「俺は損得勘定で動く男だ。わかってますよね?」


「あ、ああ……」


「一千五百万と十年ですよ? 莫大なコストだ。やっと借金がなくなって、これから会社が黒字になるって時に手を引け? 冗談じゃない。そんな大損、認められるわけがないでしょう」


 俺は早口でまくし立てた。

 顔が熱い。酔いが回ったせいか、それとも怒りのせいか。


「俺は元を取るまで死んでも離れませんよ。美鈴にも、死ぬまで俺の世話をさせて回収します。それが俺のビジネスです」


「しかし、君……」


「それに」


 俺は焼き鳥を一本掴み、串から肉を食いちぎった。


「俺はもう、高級フレンチの気取った味より、この安酒の味が気に入っちまったんです。……今更、他の生活なんてできませんよ」


 それが俺の精一杯の、捻くれた本音だった。


 義父はしばらく呆気にとられた顔で俺を見ていたが、やがてくしゃりと顔を歪め、ボロボロと涙をこぼした。


「……すまない。いや、ありがとう……ありがとう……!」


「礼には及びません。勘定はそっち持ちで頼みますよ」


 俺は照れ隠しに、ジョッキの中身を一気に飲み干した。


 苦くて、薄くて、最高に美味いビールだった。


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