第5話 始まる泥沼



 離婚を保留にしてから一週間。

 俺はなぜか、妻の実家のリビングにいた。


 部屋の中は嵐が過ぎ去った後のように荒れ果てていた。


 鳴り止まない固定電話、山積みの請求書。

 そして、憔悴しきって抜け殻のようになった義父。


「……おい、美鈴。これはどういう状況だ」


「すみません……父が、もう何から手をつけていいかわからない状態で……」


 美鈴がおろおろと茶を運んでくる。


 俺はあくまで「離婚しないためのポーズ」として、様子見に来ただけだ。

 深入りするつもりは毛頭なかった。


 だが、その決意は目前の光景によって揺らぐことになる。


「社長、ですからこの『資産保全スキーム』を使えば、確実に財産を守れます。手数料は少しかかりますが、今のままでは全て差し押さえですよ?」


 胡散臭い男が、義父に契約書を突きつけていた。


 安っぽいスーツに、テカテカの革靴。

 自称・経営コンサルタントだというその男は、溺れる者に藁を掴ませようとするハイエナそのものだった。


 義父は震える手でハンコを持とうとしている。


「……なるほど。それで会社も家族も守れるなら……」


「ええ、ええ! さあ、ここに捺印を!」


 俺の頭の中で、何かがプツンと切れた。


「――待て」


 俺は義父の手からハンコをひったくり、テーブルの上に叩きつけた。


「く、君は……娘婿くん?」


「誰だお前は! 部外者は引っ込んでろ!」


 コンサルタントが色めき立つが、俺は無視して契約書を手に取った。

 ざっと目を通す。


 ……予想通りだ。


 資産隠しに見せかけた、ただの手数料詐欺。

 しかも法的にブラックな条項が含まれており、署名した時点で義父は共犯者として終わる。


「おい、アンタ。この第5条の免責事項、どういうつもりだ? それにこの送金先、先月金融庁から警告受けてるペーパーカンパニーだろ」


 俺がスマホの画面を見せつけると、男の顔が引きつった。


 俺は本業で法務関係の書類も見ている。

 この程度の浅知恵、見抜けないわけがない。


「詐欺で通報されたくなきゃ、今すぐ失せろ。二度とこの家の敷居を跨ぐな」


 ドスの利いた声で威圧すると、男は「ちっ、面倒なのがいりやがる」と捨て台詞を吐いて逃げ出した。


 静寂が戻ったリビングで、義父が涙目で俺を見上げる。


「あ、ありがとう……危うく騙されるところだった……」


「感謝なんていりませんよ。……あんた、本当に社長やってたのか? こんな子供騙しに引っかかるなんて、ボケるには早すぎるでしょうが」


 俺は毒づきながら、散乱した書類の山を睨みつけた。


 請求書、督促状、決算資料がめちゃくちゃに混ざっている。

 合理主義者の俺にとって、この「非効率の極み」のような状況は生理的に耐え難かった。


「……あー、もう! 見てられない!」


 俺はジャケットを脱ぎ捨て、腕まくりをした。


「美鈴! 赤ペンとファイル持ってこい! 義父さんはそこの領収書を日付順に並べろ! 俺が優先順位をつけてやる!」


「は、はいっ!」


「す、すまない……!」


 結局、その日は深夜まで書類整理と資金繰り表の作成をさせられた。


 俺には関係ないはずなのに。

 こんな倒産寸前の会社の整理なんて、一円の得にもならないのに。


「……あなた、お疲れ様です」


 休憩中、美鈴がタッパーを差し出した。

 中には、黒くて丸い塊がゴロゴロ入っている。


 爆弾か何かか?


「おにぎりです。海苔がうまく巻けなくて……」


「……相変わらず独創的だな」


 俺は呆れつつ、その黒い塊を口に放り込んだ。

 具は高級な焼肉だった。米の塩加減も絶妙だ。


 疲れた脳と体に、旨味が染み渡る。


 悔しいが、エネルギーが湧いてくるのがわかった。


「……美味い」


「よかった……! もっとありますから!」


 美鈴が嬉しそうに次々と黒い塊を出してくる。

 義父も申し訳なさそうに茶を啜っている。


 不器用な妻と、無能な義父。

 このどうしようもない二人を前に、俺は深いため息をついた。


「勘違いするなよ。俺は俺の経歴を守るためにやってるだけだ」


 そう言い訳しながら、俺は再び電卓を叩き始めた。


 この時の俺はまだ知らなかったのだ。


 この泥沼の整理作業の先に。

 俺自身の身銭を切る羽目になる「究極の決断」が待っていることを。


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