第4話 離婚しそこねた男
ビリリッ、と乾いた音がリビングに響いた。
俺はテーブルの上の離婚届をひっ掴み、勢いよく真ん中から引き裂いた。
一度では飽き足らず、重ねて、もう一度破る。
緑色の紙切れは、あっという間に意味を持たない紙吹雪へと変わった。
「あ……」
美鈴が目を丸くし、口をポカンと開けている。
涙で濡れた顔が、間の抜けた表情で固まっていた。
「な、何を……せっかく、あなたが自由になれるように……」
「うるさい。黙って聞け」
俺は散らばった紙切れを指差し、できる限り冷徹な、計算高い男の声色を作って言い放った。
「いいか美鈴。お前は浅はかだ。本当に頭が悪い」
「え……?」
「今、このタイミングで俺たちが離婚したら、世間はどう思う?」
俺は彼女に考える隙を与えず、畳み掛ける。
「『義父の会社が倒産した途端、妻を捨てて逃げ出した薄情な男』。俺はそう見られるんだぞ。俺のキャリアに傷がつくどころか、人間性を疑われて社内での立場もなくなる。お前は俺の評判を地に落とす気か?」
これは詭弁だ。
実際には、犯罪者の身内になるリスクの方が、離婚するリスクより遥かに高い。
そんなことはわかっている。
だが、今の俺にはこの理屈しかなかった。
彼女の「自己犠牲」という正論をねじ伏せるには、もっともらしい「俺のメリット」を提示するしかないのだ。
「そ、そんなつもりじゃ……私は、ただあなたに迷惑をかけたくなくて……」
「だったら余計なことをするな。俺の損得は俺が決める」
俺はため息をつき、ソファにどかりと座り直した。
「ほとぼりが冷めるまで、離婚は保留だ。俺が『今なら安全に別れられる』と判断するまでは、お前は大人しく俺の妻をやっていろ。……わかったか?」
美鈴はしばらく呆然としていたが、やがてその大きな瞳から、再び涙が溢れ出した。
今度は悲しみの涙ではなく、安堵の色が混じっているように見えた。
「……はい。ごめんなさい。……ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはない。これは俺のための判断だ」
彼女は何度も何度も頷き、袖で涙を拭った。
その姿を見て、俺の胸の奥にあったイライラはようやく鎮火した。
……やってしまった。
俺は天井を仰いだ。
完全に逃げ遅れた。
損切りする絶好のタイミングを、自らの感情的な行動で棒に振ったのだ。
これぞ「サンクコスト効果(埋没費用)」の罠か。
今まで費やした三年という時間と労力が惜しくなっただけだ。
そう自分に言い聞かせる。
「……あの、あなた」
「なんだ」
「お腹、空いてませんか? 冷蔵庫にあるもので、何か作ります」
美鈴が腫れた目のまま、少しだけ笑った。
実家が破産寸前だというのに、この女は俺の胃袋の心配か。
呆れて物も言えない。
だが、不思議と腹は減っていた。
「……茶漬けでいい」
「はい。すぐ用意しますね」
キッチンへ向かう彼女の背中は、さっきまでより少しだけ小さく見えた。
けれど、あの玄関でうずくまっていた時のような、今にも消えてしまいそうな危うさは消えていた。
俺は溜め息をつく。
泥船に乗ったまま、荒れ狂う海に出ることが確定してしまった。
だがまあ、この不器用な女が作る茶漬けが食えるなら、しばらくは付き合ってやってもいい。
あくまで、俺の評判が回復するまでの「つなぎ」としてだが。
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