第9話:残滓を喰らう者


「――300秒。いや、今の出力なら200秒か」


新宿中央にそびえ立つ、異能庁本部ビルの屋上。

降りしきる黒い雨の中、俺は折れかけたマチェットを構え、目の前の「騎士」を睨みつけた。

全盛期の魔力を無理やり引き出す魔薬『ラスト・オーバーロード』。その代償として、俺の視界の端々にはバキバキとノイズが走り、血管は高圧洗浄機をかけられているかのように熱い。


(あ、これ絶対に寿命縮んでる。というか、今この瞬間も細胞がポップコーンみたいに弾けてる音が聞こえる気がする。32歳、働き盛りの体が、一晩でボロ雑巾以下だぞ。白河の野郎、あとでポテチ一万袋くらい請求してやるからな!!)

「……返せ」


俺の声は、もはや自分のものとは思えないほど重く、響いた。

放出される魔力が雨を蒸発させ、俺の周囲には白い霧が立ち込める。


「返せ? 何をだ、藤崎。この小娘のことか?」


十メートル先。アルベルトは、一滴の雨にも濡れることなく立っていた。彼の周囲では空間そのものが歪み、この世界の物理法則が拒絶されている。

彼は、手の中でぐったりとしているさくらの体を、まるで壊れた人形のように無造作にぶら下げていた。


「この娘は良い『苗床(なえどこ)』になる。清浄な魔力と、絶望に染まりやすい脆弱な精神。……世界の融合を完成させるための、最後の一押しには最適だ」

「……っ!!」


俺の脳内で、何かが決定的に壊れた。

理屈じゃない。戦略でもない。

ただ、目の前のこの男を、跡形もなく消し去らなければならない。その本能だけが、俺の四肢を動かした。


「……死ね」


ドォォォォォォン!!

屋上のコンクリートが爆発した。

移動ではない。俺自身が「弾丸」となり、アルベルトの懐へと潜り込む。

銀色の光を纏ったマチェットが、彼の首を刈り取ろうと弧を描く。

キィィィィィィィン!!


「遅いな、剣聖。かつての君は、もっと鋭かったぞ」


アルベルトは、指先一本で俺の刃を受け止めていた。

そこにあるのは、単なる力の差ではない。この世界の「ステータス」という概念を嘲笑うかのような、圧倒的な存在感だ。


「……ぐ、ぅ……ッ!」

(嘘だろ!? レベル80だぞ!? 今の俺は、この世界で最強クラスのはずだろ!? それを、指一本で……!? あいつ、レベルいくつだよ! 運営に通報するぞマジで!!)

「君の魔力は借り物だ。この世界の粗悪な『薬物』で、私の『真実の力』に届くとでも思ったか?」


アルベルトが軽く指を弾く。

それだけで、俺の体は超特急に跳ね飛ばされたかのような衝撃を受け、屋上に停めてあるヘリまで吹き飛ばされた。


「……が、はっ!!」


【HP:200/4000(急降下中)】

【警告:肉体の崩壊が始まりました。残り持続時間:120秒】


肺から空気が押し出され、血反吐が雨に混ざる。

腕が、足が、内側から膨れ上がった魔力に耐えきれず、皮膚が裂けて肉が見えている。


(……マズい。負ける。このままじゃ、さくらちゃんを助けるどころか、俺が新宿の夜景の一部になっちまう……。何か……何かねえのかよ! あの野郎の『法則』を食い破る手段が……!!)

「終わりだ、藤崎。君はここで死に、私はこの娘と共に、新たなる王国の夜明けを迎える」


アルベルトが、空いた右手を天に掲げた。

雲が渦巻き、巨大な、あまりに巨大な「黒異点」の門が、新宿の空に開こうとしていた。

その時、俺の意識の底から、獣のような声が響いた。

――足りない。――もっと、喰らえ。――世界を、法則を、絶望を。


「……あ?」


脳裏に浮かぶ、ステータス画面。

それは赤黒く変色し、文字がバグのように崩れ落ちていく。


【スキル《共食い》が、極限の怒りと共鳴し、変異します】

【隠し特性解放:概念捕食(コンセプト・イーター)】

(概念……捕食……?)


俺はゆっくりと、立ち上がった。

崩れかけた肉体。だらりと垂れ下がった左腕。

だが、俺の瞳は、もはや黄金色でも、人間のものでもなかった。

それは、全てを飲み込む、底なしの「黒」だった。


「……アルベルト。お前のその『法則』。……美味そうだな」

「……何?」


アルベルトの表情から、初めて余裕が消えた。

俺は一歩、踏み出す。

今度は音も、衝撃もない。

ただ、俺が歩いた場所の「現実」が、影のように削り取られていく。


「はあああああッ!!」


アルベルトが放った、空間を切り裂く魔力の斬撃。

俺はそれを避けなかった。

ガブリッ、という音が、精神に響いた。


「……っ!? 私の魔法を、食っただと!?」


俺は、迫りくる魔力の塊を、口で受け止めたわけではない。

「存在を認める」ことで、俺の影が、その魔法そのものを「捕食」したのだ。

ドロリとした、熱い魔力の味が脳を焼く。


(ああ……これだ。これだよ。オーガやゴブリンの核なんて、ただの前菜だったんだ。こいつの、この『世界の壁を越えた魔力』こそが、俺が求めていたメインディッシュだ!)

「お前も……お前のプライドも、その力も……全部、俺の肉にしてやる!!」


俺は地面を這う獣のように、四足で加速した。

アルベルトが慌てて展開した「絶対防御の結界」。

俺はそれを、両手の爪で掴み、力任せに**「引きちぎり、口に運んだ」**。


「なっ……バカな! それは神の領域の……!!」

「神だと? ……知るかよ!! 俺は、藤崎幸、32歳!! 腹を空かせた、ただの無職だ!!」


バリバリ、と空間が割れる音が響く。

俺は結界を食い破り、アルベルトの胸元に食らいついた。

刃ではない。俺の指が、彼の肩の肉を抉り、魔力を直接吸い上げる。


「が、あああああああああああッ!!!」


アルベルトの絶叫。

全能だった男の顔が、恐怖に歪む。

俺は彼から溢れ出す銀色の魔力を、獣のように啜った。


【スキル《統率》を完全に強奪。スキル《空間操作(偽)》を一時的に獲得】


だが、勝利の予感は、一瞬の電子音にかき消された。


『――そこまでよ。藤崎くん、今すぐ離れなさい!!』


耳に仕込まれた小型通信機から、白河の悲鳴のような声が聞こえた。


『本部の自爆装置が起動したわ! アルベルトの予備動作よ! そいつ、負けそうになったら新宿ごと吹き飛ばすつもりだわ!』

「……っ!?」


アルベルトの顔を見ると、彼は吐血しながらも、歪んだ笑みを浮かべていた。


「……フフ、……あはははは! 一緒に……逝こう、藤崎……。この世界の、塵となって……!」

「……クソ野郎が!!」


俺はアルベルトを突き飛ばし、彼の手からこぼれ落ちたさくらを、空中で抱き止めた。

白河の声が続く。


『3秒後に屋上のヘリパッドを爆破する! その爆風を利用して飛びなさい! 私がハッキングで、防衛用の重力緩衝材を一時的に起動させる! 行けえええええ!!』

「……!!」


俺はさくらを抱きしめたまま、屋上の床を蹴った。

背後で、太陽が生まれたかのような巨大な爆発光。

衝撃波が俺の背中を押し、俺たちは夜の新宿の闇へと、弾き飛ばされた。

数十分後。

都心の雑居ビルの屋上。放置された貯水タンクの影。


「……は、ぁ……。……はぁ……」


魔薬の効果が切れ、俺の体は元の「レベル2(捕食分を含めてもレベル5程度か)」へと急降下していた。

全身の筋肉が断裂し、一歩も動けない。

だが、隣には、さくらが横たわっている。


(助けた……。……なんとか、あそこから……)


俺は震える手で、彼女の肩を揺すった。


「……おい。……さくら。……起きろ」

「……う、ん……」


さくらが、ゆっくりと目を開けた。

俺は安堵の息を吐こうとして――その息が、凍りついた。

彼女の瞳。

かつての澄んだ色は消え、そこには、アルベルトが持っていた「あの勲章」と同じ、不気味な銀色の紋章が浮かび上がっていた。


「……藤崎、さん……?」


彼女の声は、どこか遠く、多重音声のように重なって聞こえた。

彼女の背中の皮膚が、内側から脈動し、不気味な「触手」のような影が揺らめいている。


「……お腹……空きました……。……藤崎さんのこと……食べても、いいですか……?」

「……」

(……冗談だろ。……助けたはずの彼女が、あいつの『世界の融合』のための……器になってるっていうのか?)


俺は無言で、マチェットの柄を握り直した。

だが、その力はもう入らない。

新宿の夜が、さらに深く、暗く、俺たちを飲み込んでいった。

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