第7話:牙を剥く組織、あるいは静かなる拒絶
新宿防衛本部の地下、最下層。
そこは、戦いでころした魔物の死骸が一時的に積み上げられ、処理を待つ「廃棄場」だ。
換気扇が回る音だけが虚しく響き、凝固した血と内臓の、鼻が曲がるような死臭が部屋中に充満している。
「……ぐ、ぅ……っ」
俺は、巨大なレッサーオーガの死骸の影で、膝をついていた。
震える手で掴んでいるのは、先ほど処理班が放置していったゴブリンの残骸から引きずり出した、濁った赤色の「核」だ。
(あ、ダメだ。これ、完全にアウトだ。理性っていう名の防衛線が、今まさに更地になろうとしてる。32歳、独身。新宿の地下でゴミ箱の裏の猫みたいに魔物の内臓を啜る。……終わってる。俺の人生、ハッピーエンドのあとにこんなバッドステータスが待ってるなんて聞いてないぞ!)
「……は、ぁ……ッ!!」
ガリッ、ジュボォ……!
俺は、自分の意志とは無関係に、その汚らわしい結晶を噛み砕いた。
喉を焼くような不快な魔力の奔流。だが、それと同時に、脳を麻痺させるような強烈な「充足感」が全身を駆け巡る。
【スキル《共食い》が発動中】
【個体:腐乱ゴブリンの魔力を小規模吸収……】
【飢餓感がわずかに緩和されました】
「……っ」
口元を拭うと、手の甲にどろりとした緑色の液体が付着した。
無表情。鏡を見るまでもなく、俺の目は今、光を失い、飢えた獣のようになっているはずだ。
「……藤崎、さん?」
背後から、震える声がした。
俺の心臓が、跳ねる。
(うわ、最悪だ!! この世で一番見られたくないタイミングで、この世で一番清純な子に見られた!! 誰!? さくらちゃん!? なんでここにいるの!? ここ、関係者以外立ち入り禁止だよ! おじさん今、凄く汚いことしてたよ!)
俺はゆっくりと、時間をかけて立ち上がった。
振り返る動作は、あくまで冷静に。背後にある魔物の死骸を隠すように。
そこには、予備の救急キットを抱えたさくらが、顔を真っ白にして立ち尽くしていた。
彼女の視線は、俺の血塗れの口元と、地面に転がった「噛み砕かれた核」に釘付けになっている。
「あ……あ……。藤崎さん、それ……何を……?」
「……」
俺は無言で彼女を見つめた。
(「これはね、ちょっとした健康食品なんだよ、最近流行ってるんだ」なんて言い訳が通じるわけないだろ!! 怖いよな、引くよな。俺だって自分自身に引いてるよ!)
「……来るな」
俺の声は、自分でも驚くほど冷たく、低かった。
「で、でも、藤崎さん、怪我が……! それに、なんだか、今の藤崎さん、すごく苦しそうで……!」
さくらが勇気を振り絞って一歩踏み出す。
その瞬間、俺の中の《共食い》が、彼女の持つ「清浄な魔力」に反応して、激しく疼いた。
(ダメだ! 近寄るな! 今の俺は、君を『仲間』じゃなくて『最高級のポーション』として認識し始めてるんだ! 頼む、嫌われてもいい。ここから去ってくれ!)
俺は、腰のマチェットの柄をわざと乱暴に叩いた。
威圧。敵意。かつて異世界で、魔族を追い払う時に使った殺気を、あえて彼女に向けた。
「……邪魔だ。消えろ」
「っ……!」
さくらの瞳に、大粒の涙が溜まった。
彼女は弾かれたように後退り、持っていた救急キットを落として、そのまま走り去っていった。
遠ざかる足音。
(……ごめん。ごめんよ、さくらちゃん。おじさん、あとで壁に向かって反省会するから。今は、君を食い殺さないために、これが精一杯なんだ……)
俺は再び膝をつき、拳を床に叩きつけた。
感情を殺しているはずの心に、泥のような自己嫌悪が溜まっていく。
――――――――――――――――――
「……というわけだ。彼はもはや、我々の管理下に置くべき『人間』の範疇を越えつつある」
同じ頃。新宿本部の高層階にある特別会議室。
重厚な円卓を囲むのは、異能庁の幹部たち、そして警察や政府の要職にある男たちだ。
その末席に、場違いなほど優雅な仕草で座っているのが、あのアルベルトだった。
「待ってください、長官!」
月島葵が、机を叩いて立ち上がる。
「藤崎特務官は、先日の調査でも多大な成果を上げています。彼の技術と経験は、これからの黒異点攻略に不可欠です。それを、ただ『食性が変わった』というだけで処分するなど……!」
「月島君、言葉が過ぎるぞ」
円卓の主、異能庁長官の守屋が冷淡に遮った。
「我々が懸念しているのは、彼の『質』だ。レベル2でありながら、上位個体を捕食し、その力を取り込む。これは魔物の生態そのものではないか。もし彼が理性を失い、この本部内で暴走したらどうする?」
「それは……」
「それに、幸いなことに」
守屋が、アルベルトを指し示した。
「こちらにおられるアルベルト殿は、異世界の騎士団において第一騎士団長を務めていたという。レベルも、スキルも、君たちとは比較にならんほど高次元だ。……彼のような『完成された英雄』がいる今、不安定な『捕食者』を飼っておくリスクを冒す必要はない」
アルベルトが、薄く微笑んだ。
「守屋長官の仰る通りです。……藤崎、でしたか。彼は私の部下でしたが、当時からその不安定さは危惧されていました。ある種の精神疾患……魔力中毒に近い。彼を野放しにすることは、この世界の市民にとっても不幸な結果を招くでしょう」
アルベルトは、異世界で次元の狭間に俺を突き落とした後、どういうわけか俺より先にこの世界へと現れ、その圧倒的な「力」と「カリスマ」を背景に、異能庁の特別顧問という地位を早々に手に入れていたのだ。
「月島調査員。君の忠誠心は買うが、組織の安全が優先だ」
守屋が、一枚の書類を月島に突きつけた。
「藤崎幸の『特務官』としての資格を一時停止する。これより彼は、地下の最深部にある収束型隔離室への移送、および――『再調整』のための検体として白河班に引き渡す」
「っ……!」
月島は唇を噛み締め、書類を掴んだ。
彼女にはわかる。
『検体として引き渡す』ということは、もはや人間としての扱いは終わる、ということだ。
会議が終わり、人影が消えた廊下で、アルベルトは窓の外の荒廃した新宿を眺めていた。
そこへ、白衣を翻しながら白河凛が近づいてくる。
彼女の手には、先ほどの会議で決定した「藤崎幸・処分及び研究」の指示書があった。
「ねぇ、騎士団長サマ。随分と酷いことするじゃない。昔の仲間に『再調整』なんていう名の解剖を許可するなんてさ」
アルベルトは振り返りもせず、冷ややかに答えた。
「……彼には、相応しい末路だ。白河博士。君にとっても、彼は最高の『素材』だろう? レベル1で帰還し、魔物を食って強くなる。そのメカニズムを解明すれば、君の望む『人工英雄』の完成も近い」
「まあね。でも、私、ああいう『しぶといネズミ』って嫌いじゃないんだよね。解剖台の上で、どんな顔をして泣き叫ぶか楽しみだわ」
白河は不敵に笑い、指示書にキスをした。
だが、その瞳の奥には、アルベルトにすら見せない鋭い観察眼が宿っていた。
(……レベル2の彼を、ここまで組織を動かして消そうとするなんて。あんた、それほど彼が『怖い』の? 騎士団長サマ)
――――――――――――――――――
その夜。
俺の個室のドアが、静かに開いた。
入ってきたのは、憔悴した様子の月島葵だ。
「……藤崎さん。すぐに、逃げてください」
「……」
俺はベッドに座ったまま、無言で彼女を見た。
(「逃げろ」って。今さらどこへ? この新宿全体が、魔物と異能庁の監視下にあるってのに。それに、ポテチのストックがまだあるんだ。置いていけないだろ)
「……組織が、あなたを検体として処理することを決定しました。アルベルト……あの男が、裏で糸を引いています。彼はあなたを、生かしておくつもりがない」
「……」
(アルベルトか。……やっぱりな。あいつ、相変わらず手回しだけは一流だ。俺を殺すなら自分で来いってんだよ)
俺はゆっくりと立ち上がり、壁に立てかけてあったマチェットを背負った。
「……白河は」
「白河班長は、今、あなたの移送準備を進めています。……でも、彼女は私にこれを預けました」
月島が差し出したのは、一本の注射器。
中には、禍々しい紫色に発光する液体が入っている。
「『これを打てば、10分間だけ、君の全盛期の魔力出力が再現できる。……死ぬかもしれないけど、解剖されるよりはマシでしょ?』……だそうです」
(白河のやつ……。変態だけど、いい趣味してやがる。10分間だけの、剣聖の力。……上等だ)
俺は無言で注射器を受け取り、ポケットにねじ込んだ。
「月島」
「はい」
「……さくらに、伝えておけ。……さっきのは、ただの演技だ。……泣くな、と」
俺は、彼女に背を向けて窓を開けた。
地上30階。夜の風が、魔素の匂いを運んでくる。
「藤崎さん……!」
「……」
(よし、かっこいいセリフ言った! 脳内ではさくらちゃんに土下座してるけど、今はこれでいい! アルベルト、待ってろよ。お前を食うのは、次の『食事時』だ!)
俺は夜の闇へと、無言で身を投げた。
追われる身となった「捕食者」の、孤独な逃亡劇が今、幕を開ける。
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