第8話 騎士団長アルトリウス

 雷鳴は、王都の外れでようやく遠ざかっていた。

 それでも空は重く、雨雲の残骸が低く垂れ込めている。

 アストリア王国騎士団本部。

 石造りの建物の最奥――団長執務室で、一人の男が書類に目を通していた。

 騎士団長アルトリウス・ヴァルド。

 年齢は二十七。

 若い、と言われることは多い。

 だが、その言葉に含まれる侮りを、彼に向ける者はいない。

 長身の体躯は椅子に座っていても際立ち、鎧を脱いだ姿であっても鍛え抜かれた肉体の線は隠しようがなかった。

 肩幅は広く、背筋はまっすぐ。

 動きに無駄がなく、視線の置きどころひとつで場の空気を変える。

 淡い色の髪は短く整えられ、鋭さを秘めた瞳は常に冷静だった。

 感情をむやみに表に出さず、必要な情報だけを拾い上げる目。

 王国では、彼をこう呼ぶ者もいる。

 ――アストリア王国の至宝。

 剣技、戦術眼、指揮能力。

 そのすべてが突出し、なおかつ王家への忠誠も疑いようがない。

 二十代でこの地位に就くこと自体が異例だが、彼の場合、それを疑問視する声はすでに消えていた。

「団長」

 扉を叩いて入ってきたのは、副団長ライネルだった。

 年齢は二十五。

 団長より二つ年下だが、実務能力は高く、騎士団内での信頼も厚い。

「最新の報告です」

「聞こう」

 アルトリウスは書類を閉じ、視線を上げる。

 それだけで自然と会話の主導権が彼に移った。

「アレイオンの森周辺で、魔獣の目撃が相次いでいます」

「数は少数ですが、街道近くまで出没しているとのことです」

 その名を聞いた瞬間。

 アルトリウスの胸の奥に、理由の分からない違和感が走った。

 表情は変えない。

 声も揺れない。

「禁域だな」

「はい。正式には調査非推奨区域」

 ライネルは一瞬だけ言葉を選び、

「……いわゆる、“魔女の森”です」

 二十年経っても、王国の認識は変わらない。

 魔女は災厄。

 理解不能で、交渉も共存も不可能な存在。

 過去に救われた記録が残っていたとしても、

 それを肯定的に語る者はいない。

「王城からは、魔獣討伐の要請が出ています」

「ただし、森の奥へは深入りするな、と」

 責任を騎士団に押し付ける、いつもの曖昧な命令だ。

 アルトリウスは短く息を吐いた。

「俺が行く」

 即断だった。

 ライネルが、わずかに目を見開く。

「団長自ら、ですか」

「危険です。禁域への接近は――」

「分かっている」

 低く、はっきりとした声が遮った。

「だからこそだ」

「判断を現場に丸投げするわけにはいかない」

 若さゆえの無謀ではない。

 責任を理解した者の選択だった。

「それに……」

 一瞬だけ、言葉が途切れる。

「嫌な予感がする」

 理屈ではない。

 経験則でもない。

 胸の奥に残る、説明できない引っかかり。

 それを無視して命令を下すほど、彼は未熟ではなかった。

「……承知しました」

 ライネルは一礼する。

「精鋭を選抜します。団長直率で」

「頼む」

 準備は迅速だった。

 数刻後、騎士団は王都を発ち、アレイオンの森へ向かう。

 森が近づくにつれ、

 アルトリウスの中で奇妙な感覚が強まっていった。

 懐かしい――

 そんな感情が湧くはずがない。

 彼は、この森を知らない。

 少なくとも、そういうことになっている。

 それでも。

 湿った土の匂い。

 風の流れ。

 遠くで鳴る雷の気配。

 すべてが、胸の奥に触れてくる。

 無意識に、視線が森の奥へ向かう。

「……」

 理由は分からない。

 だが、確信だけがある。

 ここは――通り過ぎてはいけない場所だ。

 騎士団は森の入口で隊列を整えた。

 ここから先は禁域。

 規則上、足を踏み入れる理由はない。

 それでも、アルトリウスは馬を止めた。

「ここまでだ」

 部下たちに告げる声は冷静だった。

「俺が先を確認する」

「ライネル、お前はここで指揮を取れ」

「団長……!」

「問題ない」

 振り返らずに言い切る。

「戻らなければ、撤退しろ」

 それは命令であり、覚悟の宣言だった。

 アルトリウスは馬を降り、森の奥へと足を踏み出す。

 木々の影が重なり、人の世界の音が遠ざかっていく。

 胸の奥で、何かが静かに疼く。

 ――雷の夜。

 ――抱きしめた記憶。

 知らないはずの過去が、

 足を止める理由になりそうになる。

 それでも、彼は歩いた。

 木々の間から、低い唸り声が響いた。

 雨に濡れた下草が揺れ、重い何かが動く気配がする。

「――来たか」

 アルトリウスは足を止め、剣の柄に手をかけた。

 呼吸は乱れない。

 心拍も、戦場に入る前の速度のままだ。

 茂みを割って姿を現したのは、黒毛に覆われた魔獣だった。

 狼に似た体躯だが、倍はある。

 牙は不自然に長く、雨水を滴らせながら地面を削った。

 魔獣は吠えた。

 威嚇というより、侵入者を排除するための咆哮だ。

 かつてなら――

 七歳の頃なら、この距離で声も出せずに立ち尽くしていただろう。

 アルトリウスは静かに剣を抜いた。

「……来い」

 次の瞬間、魔獣が跳ぶ。

 地面を蹴る力は凄まじく、一直線に喉元を狙ってきた。

 だが、アルトリウスの身体はすでに動いている。

 一歩。

 半身をずらし、

 すれ違いざまに剣を振る。

 重い手応え。

 確かな感触。

 魔獣の側腹から血が噴き出し、獣は地面を転がった。

 それでも、まだ倒れない。

 傷を負ったまま体勢を立て直し、再び距離を詰めてくる。

「……しぶといな」

 低く呟き、アルトリウスは間合いを計る。

 焦りはない。

 獣の動きは速いが、単調だ。

 爪が鎧を掠め、衝撃が腕に走る。

 一瞬、重さに足を取られた。

 ――だが、倒れない。

 踏ん張り、剣を突き立てる。

 喉元へ、正確に。

 魔獣の身体が大きく跳ね、

 やがて力なく崩れ落ちた。

 雨音だけが残る。

 アルトリウスは、しばらくその場に立ったまま呼吸を整えた。

 剣先から血を振り払い、魔獣の死骸を見下ろす。

 かつて、この森で――

 自分は、こうして立ってはいなかった。

 瀕死で、泣きもせず、声も出せず、

 ただ死ぬしかなかった子供。

 その自分はいない。

 ここにいるのは、

 判断し、斬り、立ち続ける男だ。

「……問題ない」

 独り言のように呟き、剣を納める。

 身体のどこにも致命傷はない。

 そのときだった。

 アルトリウスの視線が、ふと森の奥へ向く。

 魔獣のものではない。

 人のものでもない。

 ――見られている。

 確信だけが、背中を撫でた。

 禁域。

 魔女の森。

 そこに、何かがいる。

 彼は一歩、奥へ踏み出そうとして――

 踏みとどまった。

 今は、まだだ。

 騎士団長として、進むべき距離ではない。


 *


 同じ頃。

 森のさらに奥。

 ルシェルは、調合をしていた手を止めた。

 小瓶の中で揺れていた液体が、静かに落ち着く。

「……」

 雷ではない。

 雨でもない。

 結界の外側に、余計な気配が触れた。

 魔獣ではない。

 獣でもない。

「……面倒ね」

 小さく息を吐き、立ち上がる。

 外套を手に取りながら、独り言のように続けた。

「一応、確認しないと」

 そうして魔女は、

 久しぶりに“人の気配”のほうを向いた。

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