第7話 森の入り口に置いてくる日
朝の森は、驚くほど静かだった。
昨夜の嵐が嘘のように空は澄み、地面にはまだ雨の名残がしっとりと残っている。
折れた枝や落ち葉が道の脇に散らばり、踏みしめるたび、かすかな水音を立てた。
森はいつもと変わらない。
――そう言い聞かせるには、少しだけ整いすぎている朝だった。
アルトは、ルシェルの少し後ろを歩いていた。
距離は、いつもより半歩分ほど遠い。
声はかからない。
足取りも、いつもと変わらない。
薬草を探す日と同じ速度。
家に戻るときと同じ背中。
けれど、進む方向だけが違っていた。
森の奥ではなく、外へ。
人の世界へ向かう道。
木々の密度が次第に薄れ、下草が途切れる。
陽が差し込み、影が短くなる。
踏み固められた獣道の先に、人の通った痕跡が混じり始めたとき――
ルシェルは足を止めた。
「……ここよ」
それだけだった。
立ち止まった理由も、
これからどうするのかも、語られない。
アルトは、道の先を見た。
森の匂いが薄れ、代わりに土と煙の気配が混じる方向。
まだ村の姿は見えない。
けれど、確かに“こちら側”とは違う空気がある。
胸の奥が、静かに沈んだ。
少しの沈黙のあと、ルシェルが続ける。
「まっすぐ行けば、人に会うわ」
「名前と、年を言いなさい」
「森に入った理由は……迷った、でいい」
命令でも、助言でもない。
生き延びるための最低限の手順を並べただけの声だった。
アルトは小さく頷いた。
泣きそうになるより先に、納得が来てしまった。
この人は、最初から「いつか離す」つもりでいたのだと。
ルシェルは、アルトの肩に手を置いた。
雷の夜のように抱き寄せることはしない。
背を撫でることも、引き止めることもない。
ただ、一度だけ触れる。
確認するように。
切り離す位置を確かめるように。
その手は冷たくも、優しくもなかった。
魔法を流すことも、祝福を与えることもない。
――「ここまでだ」と線を引くための、短い接触。
視線を伏せたまま、ルシェルは呟いた。
「……人間は、すぐにいなくなるわ」
独り言だった。
アルトに向けた言葉ではない。
森に言い聞かせるような、低い声。
老いる。
死ぬ。
あるいは、何も言わずに去る。
魔女の時間感覚の中では、すべて同じだ。
どんな関係も、必ず先に終わる。
「それなら……」
一拍置いて、淡々と続ける。
「最初から、いないほうがマシ」
それは、残酷な真理だった。
そして、孤独に慣れきった者の対処法。
期待しなければ、失わない。
近づかなければ、置いていかれない。
ルシェルは、手を離した。
振り返らない。
表情を確かめもしない。
森の奥へ戻るように、静かに歩き出す。
一度決めた距離を、決して越えない歩き方で。
アルトは、その背中を見送った。
呼び止めなかった。
追いかけなかった。
自分が今、切り離されているのだと、理解していたからだ。
彼が歩き出したのは、反対の方向。
人の世界へ続く道だった。
その日、魔女はまたひとりになる。
それは罰でも、悲劇でもない。
彼女にとっては、何度も繰り返してきた「いつも通り」の選択だった。
*
森の奥は、いつも通り静かだった。
霧は低く、湿った空気が地面に溜まっている。
魔女の家は、変わらずそこにある。
扉を閉める音が、やけに大きく響いた。
ルシェルは外套を脱ぎ、いつもの場所に掛ける。
道具袋を下ろし、靴を揃える。
――何も、変わらない。
そう思おうとして、足が止まった。
机の上に、カップがふたつ置かれている。
片方は、縁が少し欠けたもの。
もう片方は、薬の計量に使っていた簡素な陶器。
どちらも、洗われていない。
飲み残しの跡が、うっすらと残っている。
ルシェルは、それをしばらく見下ろしてから、鼻を鳴らした。
「……片づけるの、忘れてる」
独り言は、誰にも届かない。
部屋の奥へ進む。
床は、いつもより歩きやすかった。
散らかりがちな薬草や布切れが、壁際に寄せられている。
完璧ではない。
けれど、通り道ができている。
――言われなくても、やるようになっていた。
それが、少しだけ面倒だった。
乾燥棚の前に立つ。
吊るされた薬草の量が、微妙に少ない。
必要以上に整理され、不要なものが省かれている。
ルシェルは、指先で一本を摘まみ、軽く揺らした。
「……余計なこと」
言いながらも、捨てはしない。
寝台のほうへ目をやる。
毛布は、きちんと畳まれている。
使われていないはずなのに、少しだけ皺が残っていた。
小さな身体が、丸まっていた痕跡。
ルシェルは、視線を逸らした。
人間は、すぐ死ぬ。
一緒にいればいるほど、面倒になる。
眠らせて、置いてきた。
それだけのこと。
また一人に戻るだけ。
いつも通りだ。
ルシェルは机の前に腰を下ろし、
積み上げた書簡と帳面を手に取る。
作業は、いくらでもある。
時間は、いくらでもある。
それなのに、ペン先がすぐには動かなかった。
机の上の、カップが視界の端に入る。
ふたつ。
……洗わないと。
そう思って、立ち上がりかけて、やめた。
「……面倒なのよ」
誰に向けたわけでもない言葉。
ルシェルは背もたれに身体を預け、目を閉じた。
森は静かだ。
雷も、雨もない。
嵐の夜に抱きしめられた感触など、
ここには残っていない。
残っているのは、
部屋の中に散らばった、人間の名残だけ。
それも、時間が経てば消える。
床はまた散らかり、
道具は元の場所に戻り、
カップはひとつになる。
それが、正しい。
ルシェルは、ゆっくりと息を吐いた。
「……ひとりに戻るだけ」
そう繰り返して、
ようやくペンを取った。
森の奥で、魔女はまた、
いつもの時間を生き始める。
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