第9話 魔女との再会

 魔獣を斃したあと、アルトリウスは本来なら引き返すべきだった。

 禁域での単独行動。

 討伐完了後は速やかに持ち場へ戻り、状況を報告する。

 それは騎士団の大原則であり、

 何より――団長である自分が、率先して守るべき規律だ。

 分かっている。

 理解している。

 それでも、彼の足は森の奥へ向かっていた。

 剣の柄に手を添えたまま、アルトリウスは歩みを進める。

 一歩、また一歩。

 進むほどに、空気が変わっていく。

 風の音が薄れ、雨音さえも遠のく。

 魔獣の気配は、ない。

 人の気配も、ない。

 それなのに――

 確かに、“誰か”がいる。

 理屈ではない。

 経験でもない。

 胸の奥に、抗いようのない確信だけがあった。

「……」

 アルトリウスは足を止めた。

 木立の向こう。

 視界の端を、黒い影が横切る。

 次の瞬間、それははっきりと姿を現した。

 黒い髪。

 黒い瞳。

 細い肩と、変わらぬ佇まい。

 背が低く見えるのは――

 彼女が変わらないからだ。

 自分が、大人になっただけで。

 魔女は、そこに立っていた。

 まるで時間から切り離された存在のように。

 森そのものの一部として。

 アルトリウスは、息を忘れた。

 ――見間違えようがない。

 薬草の匂い。

 雑然とした机。

 雷の夜。

 腰に回した自分の腕。

 突き放されなかった、あの沈黙。

 すべてが、一気に胸の奥へ押し寄せる。

「……ルシェル」

 名前は、意識する前に零れていた。

 呼びかけに、魔女は初めてこちらを見た。

 黒い瞳が、騎士団長の姿を静かに捉える。

 剣。

 鎧。

 鍛え抜かれた体躯。

 そこに映っているのは、

 “知らない男”だ。

 しばしの沈黙のあと、

 ルシェルは淡々と口を開いた。

「……誰?」

 その一言で、すべてが分かった。

 覚えていない。

 正確には――あの少年と、目の前の男が、

 彼女の中で繋がっていない。

 二十年。

 魔女にとっては、瞬きほどの時間。

 人間の成長など、記憶に留める価値すらない。

 アルトリウスの胸に、かすかな痛みが走る。

「通りすがりです」

 ゆっくりと答えた。

 名乗らない。

 今ここで、すべてを明かす理由はない。

 ルシェルは観察するように彼を見つめ、

 やがて視線を逸らした。

「こんな所に? 通りすがり……」

「ここは禁域よ」

 冷たい声。

 拒絶を含んだ、迷いのない言葉。

「人間が来る場所じゃない」

「……分かっています」

「分かってるなら、戻りなさい」

 そう言って、彼女は一歩、後ろへ下がる。

 距離を取る仕草。

 ――同じだ。

 二十年前。

 自分を森の入口に置いた、あの距離。

 アルトリウスは、その小さな動きを見逃さなかった。

 怒りではない。

 威嚇でもない。

 近づけないための、線引き。

 人間を傷つけないための、選択。

「……あなたは」

 問いかけようとして、言葉を飲み込む。

 “覚えているか”など、聞くべきではない。

 ルシェルは剣に視線を落とした。

「騎士ね」

「ええ」

「用があるなら、森の外で」

「……用は、ありません」

 それは嘘ではなかった。

 会えたこと自体が、

 すでに目的となり変わろうとしていた。

 ルシェルは、わずかに眉を寄せる。

「なら、なおさら帰りなさい」

 冷たく言い切る。

「ここに長居する理由はない」

 アルトリウスは、一歩だけ前に出た。

 雷鳴が、遠くで響く。

 風が、ふたりの間を抜けていく。

「……昔」

 言いかけて、やめた。

 その言葉は、彼女には届かない。

「しつこいわね」

 苛立ちを含んだ声。

 だが、その奥にあるものを、彼は知っている。

「もう一度言うわ」

「――帰りなさい」

 ルシェルは踵を返し、森の奥へ向かった。

 追わなかった。

 呼び止めもしなかった。

 ただ、その背を見送りながら、確信する。

 同じ森。

 同じ魔女。

 自分は、気づいた。

 彼女は、気づかない。

 それでいい。

 ――今は、まだ。

 雷が、もう一度鳴る。

 アルトリウスは静かに息を吐いた。

 この再会は、終わりではない。

 始まりですらない。

 ただ、二十年前に優しく切られた線が、

 再び、かすかに結ばれただけだ。

 追い払われたその場所で、

 騎士団長は確かに思った。

 ――もう、離れない。

 なぜだか、そう思ってしまった。

 あの雷の夜、

 しがみついた魔女の、少し低めの体温を思い出してしまった。

「なんなんだろうな……」

 あのとき置いていかれた理由も、

 優しさも、

 孤独も。

 すべてを知ったうえで、

 今度は自分が、彼女の前に立つ。

 そう決めるには、

 十分すぎる再会だった。


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