第6話 切り離すための距離
朝の光は、森の奥ではいつも遅れて届く。
木々に遮られ、霧に滲み、ようやく窓辺に落ちるころには、すでに昼に近い。
アルトは寝台から起き上がり、ゆっくりと肩を回した。
身体に痛みはない。
かつてあった重さも、熱も、引き攣れるような違和感も、もう残っていなかった。
ただひとつ、脇腹に残る紫色の痕――
毒々しい噛み跡を除いては。
見た目はひどい。
けれど、触れても痛まないし、動かしても支障はない。
問題は、ない。
作業台の前で、ルシェルがアルトを一瞥する。
「……傷跡は残っているけど、問題はなさそうね」
事実だけを述べる声だった。
感想も、感慨も含まれていない。
「見た目は悪いけれど、治療のかいあって身体は正常。あとは、時間がどうにかする」
時間が――どうにかする。
その言い方が、どこか他人事のようで、アルトは小さく頷くだけにとどめた。
この半年で、彼は学んでいた。
ルシェルが言葉を選ぶとき、そこに余計な意味は足されない。
だからこそ、削られた部分に意味が残る。
ルシェルは、傷を「治した」。
だが、完全に「消す」ことはできなかった。
それ以上踏み込めば、彼女自身の領分を越えると知っているかのように。
その日、ルシェルは地図を広げていた。
古い羊皮紙で、端は擦り切れ、書き込みも雑多だ。
アルトは黙って横から覗く。
森の奥。
川。
人の住処。
そして――森の入口。
ルシェルの指が、そこをなぞった。
ほんの一瞬。
確認するような、ためらいのない動き。
地図はすぐに畳まれ、棚に戻された。
*
その日から、ルシェルはアルトに細かなことを教え始めた。
森の中で道を見失ったときの戻り方。
日が傾く速さで天候を読む方法。
川の水が増える前兆と、近づいてはいけない色。
「こっちの苔は踏んでもいい。
そっちはだめ。足を取られる」
「木の皮を剥ぐなら下側だけ。
上までやると枯れるから」
教え方は簡潔で、理由は最低限。
覚えられない前提では話さない。
アルトは言われた通りに動いた。
間違えると、すぐ訂正される。
叱られはしないが、やり直しは許されない。
――ちゃんと、生きる側の教えだった。
「……これ、村でも使える?」
何気なく聞くと、ルシェルは一拍だけ間を置いた。
「ええ。森の外でも、役に立つわ」
「森の外」
その言葉が、胸の奥で小さく引っかかる。
ここではない場所を、前提にした言い方だった。
夕方、ルシェルはアルトの衣服を繕った。
破れた裾を詰め、ほつれを切り落とす。
「大きくなったわね」
ぽつりと、独り言のように言う。
「え?」
「何でもない」
針は止まらない。
測るように布を引き、無駄なく縫う。
それは世話というより、
「整える」という作業に近かった。
乱れたものを、元の場所へ戻すように。
*
夜。
アルトは作業を終えたあと、火の落ちた炉のそばに座った。
ここに来たばかりのころは、この家に「いる」ことすら、恐る恐るだった。
けれど今は違う。
薬草の匂いも、散らかった床も、
無言で背を向ける魔女の姿も、
日常として受け入れている。
それが、ずっと続くものだと――
どこかで、思い始めていた。
「……ルシェル」
呼びかけると、彼女は顔を上げないまま答えた。
「何」
「ここにいても……いい?」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
ルシェルの手が、一瞬だけ止まる。
顔は上げない。
視線も向けない。
けれど、その沈黙が、アルトにははっきりと分かった。
――今なら、切れる。
ここで情を足さなければ。
ここで約束をしなければ。
人間と深く関わらない。
孤独に慣れているからこそ身につけた、ルシェルの対処法。
彼女は、ゆっくりと息を吐いた。
「……いつまでも、という意味なら、だめ」
それだけだった。
拒絶ではない。
けれど、受け入れでもない。
線を引くための言葉。
アルトは何も言わなかった。
ただ、頷いた。
紫色の傷跡が、服の下で脈を打つ。
それはまだ消えない。
だが――問題はない。
今は、まだ。
*
しばらくして、ルシェルがふと思い出したように口を開いた。
「……ねえ」
「はい」
「あんた、名前なんだっけ?」
一瞬、アルトは目を瞬いた。
「アルト、です。
……アルトリウス」
「ふうん」
興味なさそうに返す。
「そんな名前だったかしらね」
そして、少しだけ声を落とす。
「いい? アルト。
もう、こんな森に入ろうと思ってはだめよ」
それは忠告だった。
命令ではなく、約束でもない。
距離を測るための言葉。
魔女は人間と距離をとる。
人間は魔女と距離をとる。
それが互いの適切な距離。
境界線が、交わることはあってはならない。
「……ルシェル」
アルトは迷ってから言った。
「ルシェルは、怖い魔女なんかじゃないよ」
ルシェルは、思わず顔を上げた。
「何よ、それ」
少しだけ眉をひそめる。
「最初は、すごい顔で私を見てたくせに」
アルトは、少し気まずそうに視線を逸らす。
「ぼ、僕……
黒い髪と、黒い瞳、初めて見たから……」
一瞬。
ルシェルは言葉を失った。
そして、鼻で小さく笑う。
「……くだらない」
そう言って、また背を向ける。
けれどその背中は、ほんの少しだけ、距離を測りかねているようにも見えた。
こんな人間の子どもなんて、拾うつもりはなかったのに。
――本当に、厄介ね。
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