第5話 嵐のあとで

 朝は、唐突にやってきた。

 昨夜の嵐が嘘だったかのように、森は静まり返っている。

 雨に洗われた葉は重く垂れ、土は黒く締まり、空気には冷えた水の匂いが残っていた。

 アルトが目を覚ましたとき、家の中にはもう雷の気配はなかった。

 炉の火は落とされ、薬草を干す紐が窓際でかすかに揺れている。

 あれほど荒れていたはずの夜の名残は、すべて丁寧に片づけられた後だった。

 ――まるで、最初から何もなかったみたいに。

 アルトは、ゆっくりと身体を起こした。

 寝台の脇に置かれた毛布が、きれいに畳まれている。

 あの夜。

 雷鳴の中で。

 自分は確かに、この家の主に縋りついたはずだった。

 大人の身体に、子どもの腕でしがみついて。

 突き放されるかもしれないと思いながら。

 けれど――。

 その記憶は、朝の静けさの中で、少しだけ現実味を失っていた。

 アルトは寝台から降りた。

 床に足をつくと、ひんやりとした感触が伝わる。

 雨が運び込んだ冷えが、家の中に残っている。

 台所のほうから、微かな物音がした。

 アルトは足音を忍ばせるようにして、そっと覗き込む。

 そこにいたのは、いつもと同じルシェルだった。

 机に向かい、瓶を並べ、羽根ペンを走らせている。

 背中の線も、髪の結び方も、立ち姿も、昨日までと変わらない。

 まるで、嵐の夜などなかったかのように。

「……おはよう」

 アルトは、恐る恐る声をかけた。

「起きたのね」

 返ってきたのは淡々とした一言。

 振り返りもしない。

 その声に、昨日の掠れはなかった。

 アルトは胸の奥が、少しだけちくりとするのを感じた。

 話題にしてはいけない。

 そんな気がした。

 けれど、なかったことにしていいとも思えなかった。

「……あの」

「朝ごはん、そこ」

 重なるように言われて、アルトは言葉を飲み込む。

 机の端に木の器が置かれている。

 温かい湯気が、ほのかに立ちのぼっていた。

 パンと、煮た豆と、薄く切った果物。

 いつもと同じ朝食。

 アルトは椅子に座り、黙ってそれを口に運ぶ。

 味も、温度も、昨日までと変わらない。

 ――変わったのは、自分だけだ。

 ふと、視線を上げる。

 ルシェルの机の上に、昨夜落ちたはずの羽根ペンが元の位置に戻されている。

 床にも、何も落ちていない。

 完璧に片づけられている。

 まるで、「痕跡」を消すことに慣れているみたいに。

 アルトはスプーンを握る手に、ぎゅっと力を入れた。

「……昨日」

 言いかけて、止まる。

 ルシェルはペンを止めなかった。

 紙の上を、音もなく線が走る。

 返事を待つでもなく、続きを促すでもなく。

 ――語らせない、というより、

 「語る必要がない」と言っているみたいだった。

 アルトは結局、それ以上何も言えなかった。


 *


 朝が過ぎ、日が少し高くなっても、ルシェルは嵐の話をしなかった。

 雷のことも、自分がしがみついたことも、何ひとつ。

 アルトは薬草を裏返しながら、何度も昨日の夜を思い出す。

 あのとき、ルシェルは確かに「怖がっていた」。

 少なくとも、いつも通りではなかった。

 なのに、今は――。

 魔女は、いつも通りだ。

 アルトは、ふと気づいてしまう。

 昨日の嵐で、森の外の木が一本倒れている。

 屋根の隅には、枝が引っかかっている。

 森には、確かに嵐が通り過ぎた痕が残っている。

 ――消えているのは、この家の中だけだ。

「……ねえ」

 作業の合間、アルトは思い切って声をかけた。

「昨日、ぼく……」

「覚えてなくていいわよ」

 即座に返ってきた。

 淡々と、いつもと同じ調子で。

 アルトは言葉を失った。

 ルシェルは、ようやくこちらを見た。

 黒い瞳が、一瞬だけアルトを映す。

「子どもはね」

 静かな声だった。

「嵐の夜のことなんて、

 忘れるくらいでちょうどいいの」

 それはアルトに向けた言葉なのか。

 それとも、自分自身に向けたものなのか。

 アルトには分からなかった。

「……でも」

「でも、じゃない」

 きっぱりと言い切られる。

「昨日は昨日。

 今日は今日。

 私は何も喋る気はない」

 それ以上、続きはなかった。

 ルシェルはまた机に向き直る。

 ――線が引かれた。

 昨日の夜と、今日の朝のあいだに。

 触れてはいけない場所がある。

 アルトは、それをはっきりと感じ取った。


 *

 その日の昼、ルシェルはひとりで森の奥へ出ていった。

 薬草を採りに行く、とだけ言って。

 アルトは家に残された。

 静かな家で、昨日の嵐を思い出す。

 ――雷の音。

 ――揺れる家。

――背中に触れた、大人の手。

 そして、今朝の言葉。

 「覚えてなくていい」。

 アルトは胸の奥で、小さく首を振った。

 忘れない。

 忘れられない。

 理由は分からない。

 怖さの正体も、知らない。

 それでも、あの夜に感じた温度だけは、

 確かに、ここに残っている。

 外では、水を含んだ森が、何事もなかったかのように息をしている。

 その中で、魔女は今日も何も語らない。

 けれど、語られなかったものほど、

 深く、静かに、根を張る。

 アルトは、それを、まだ知らない。

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