第4話 雷の夜
傷が塞がり、熱も引き、アルトがようやく寝台から降りられるようになった頃――
ルシェルは一切の前置きもなく、そう言った。
「ほら、動けるようになったんだから働きなさいよ」
アルトは目を瞬いた。
「……はたらく?」
「そう」
当然のことのように頷く。
「騎士になりたいんでしょう? 訓練だと思いなさい」
そう言って、箒を放り投げてくる。
「床。まずここ」
「踏んだら毒草が刺さるわよ」
「そのあと水汲み」
「薪も足りないから割っておいて」
次々と指示が飛ぶ。
「え、あの……」
「何」
「ぼく、まだ……」
「死んでないでしょう」
ぴしゃり。
「だったら問題ないわ! 働けるじゃない!」
アルトは何も言えなくなった。
こうして、アルトの一日は始まった。
散らかった薬草を避けながら床を掃き、瓶を倒さないように気をつける。
森まで水を汲みに行き、戻ってからは薪割り。
慣れない作業で腕はすぐに痛くなった。
だがルシェルは、一度も様子を見に来ない。
家の奥では、机に向かい、薬瓶を並べ、粉を量り、ぶつぶつと何かを書きつけている。
「……ルシェル」
思わず呼ぶと、
「今忙しい」
即答だった。
振り返りもしない。
アルトは少しだけ口を尖らせながら、それでも言われた通りに手を動かした。
――でも。
水汲みの桶が重すぎるときは、いつの間にか水量が減っていた。
薪割りで指を打てば、夜には薬が置かれていた。
掃除の途中で眠ってしまえば、毛布が掛けられていた。
何も言わずに。
文句を言いながら、世話を焼く。
それが、この魔女の日常だった。
*
その日の夕方までは、何の変哲もない森だった。
嵐の気配は、雨より先にやってきた。
鳥の声がして、木々がざわめく。
薬草を干すにはちょうどいい乾いた風が吹いていた。
けれど、日が沈むころから、空気が変わった。
湿り気を含んだ風が、一定ではない向きで吹き込んでくる。
葉擦れの音がばらつき、木々の軋む音が、不規則に重なった。
アルトは、窓の隙間から外をのぞいた。
森の輪郭が、いつもより早く闇に溶けていく。
「……雨、降るのかな」
小さくこぼした声に、返事はない。
部屋の奥では、ルシェルがいつも通り机に向かっていた。
薬瓶を並べ、粉を量り、羽根ペンを走らせる。
何も変わらないように見える。
いつも通りの、魔女の背中。
――そう、見えていたのに。
瓶を置く音が、ほんの少しだけ乱れた。
ペン先が紙を滑る音が、一瞬だけ止まる。
アルトは、そこにひっかかりを覚えた。
この半年、彼はルシェルの家で暮らしてきた。
散らかった部屋も、雑に見えて整った道具の配置も、
魔女の手の動きも――だいたい分かるようになってきたつもりだ。
だからこそ、
そのわずかな「違和感」に気づいてしまう。
「……ルシェル」
呼びかける声は、まだ小さい。
返ってきたのは短い一言だけだった。
「何」
いつもと変わらない、感情の色を混ぜない声。
それきり、またペンが動き出す。
アルトは、それ以上は何も言えなかった。
けれど、胸のあたりに生まれた小さなざわめきは消えない。
窓の外の闇が、少しずつ濃くなっていく。
そして――遠くで、雷が鳴った。
低く、腹の底に響くような音。
空が軋んだような感覚に、アルトは肩をすくめる。
雷そのものは、さほど怖くない。
村で暮らしていたころも、嵐の夜はあった。
家の中で膝を抱えてやり過ごせば、いつかは朝が来る。
それを、知っている。
けれど、この森で聞く雷は、どこか違って聞こえた。
アルトは、思わずルシェルのほうを見た。
ルシェルは、手を止めていた。
瓶の口に指をかけたまま、わずかに固まっている。
その視線は机の上に落とされたまま、窓のほうへは向かない。
次の雷鳴が、さっきよりはっきりとした音を伴って響く。
ルシェルの肩が、ほんの少しだけ揺れた。
気のせいかもしれない。
見間違いかもしれない。
そう思おうとしても、目は逸らせなかった。
魔女は、何も怖がらないはずだった。
村で聞かされてきた物語は、みんなそう言っていた。
空すら割る。
大地を沈める。
人の祈りも叫びも、気まぐれひとつで踏み潰す。
嵐も雷も、脅威にはならない存在――の、はずだった。
けれど、目の前の魔女は、違って見える。
雷鳴が重なっていく。
風が強くなり、窓枠がかたかたと震えた。
ルシェルは一度だけ顔を上げた。
けれど、窓の外は見なかった。
視線は壁のあたりで止まり、そのまま机の上へと戻る。
その横顔は、いつも通り無表情に見えた。
それでも、その瞳の奥に、
一瞬だけ影が走った気がした。
アルトの胸が、ざわつく。
――おかしい。
怖いのは、自分ではない。
雷でもない。
魔女が、いつも通りではないことが、怖い。
家が、ぐらりと揺れた。
近くに落ちたのか、光と音がほとんど同時に襲ってくる。
「っ……」
思わず、息が詰まる。
ルシェルの手から、一本の羽根ペンが滑り落ちた。
床に当たって、乾いた音を立てる。
拾おうとする手が、わずかに震えた。
その様子を見た瞬間――アルトの足が勝手に動いた。
一歩、踏み出す。
もう一歩。
気づけば、作業台のすぐそばまで来ていた。
ルシェルの背中は、間近で見るとやはり大きい。
細身ではあるが、大人の女の身体。
長い黒髪が肩から背に流れ、
その下にある背筋の線が、薄い服越しにも分かる。
アルトの目線では、肩口までが精いっぱいだった。
見上げなければ、顔は見えない。
雷鳴が、またひとつ落ちる。
閃光が窓を照らし、部屋の影が一瞬、鋭く浮かび上がる。
アルトは、考えるより先に動いていた。
伸ばした両腕を、目の前の背中へ。
細い腰のあたりに腕を回し、全身でしがみつく。
子どもの腕では、背中の半分ほどしか回らない。
肩から肩へ届くには遠く、指先がぎりぎり布を掴む程度だ。
顔を押しつけた先は、ルシェルの腰の少し上。
胸元には届かない。
それでも、ぎゅっと力を入れた。
逃げ場を探す小さな動物のように、
大きなものに縋りつくしかなかった。
ルシェルの身体が、目に見えて強張る。
突き飛ばされるかもしれない。
腕を払われるかもしれない。
そんな想像が頭をよぎる。
けれど、それでも手は離せなかった。
雷鳴が続く。
外で風が唸り、木々が軋む音が混じる。
ほんの数息分の沈黙のあと、
ルシェルはゆっくりと息を吐いた。
「……何してるの」
頭の上から落ちてきた声は、
思ったよりも掠れていた。
いつものような余裕のある無関心ではない。
わずかに、どこかに力が入った声。
アルトは、何も言えなかった。
言葉にしたところで、説明できない。
雷が怖いわけではない。
ただ、今ひとりでいるのが嫌だった。
大人の魔女より、
自分のほうが怯えているように見えるのは、理屈に合わない気がした。
だから、何も答えなかった。
ただ、しがみついたまま、服をぎゅっと掴む。
ルシェルは、それ以上は何も言わない。
しばらくして、ためらうように手が動いた。
大人の手が、アルトの背中にそっと触れる。
抱きしめ返すほど強くはない。
撫でるほど優しくもない。
ただそこに置かれただけの、不完全な仕草。
けれど、それだけでアルトは息を吐いた。
――突き放されなかった。
それだけが、はっきりとした事実だった。
ルシェルの呼吸は、まだ少し速い。
耳を澄ませば、その鼓動さえ聞こえそうなほど、近い。
雷鳴が、またひとつ遠くで響く。
アルトは、顔を埋めたまま小さく口を開いた。
「……ルシェル」
呼ぶつもりはなかった。
ただ、自然と口から零れた。
物語の中で語られる「災厄の魔女」ではなく。
森の奥に棲む「得体の知れない存在」でもなく。
今、腕の中にいる、この人を――名前で呼んだ。
ルシェルはすぐには答えなかった。
雷鳴と雨音が、間を埋める。
ようやく、一拍置いてから、低く返ってくる。
「……何」
それだけ。
叱りもしない。
否定もしない。
ただ、呼ばれたことを受け止めるように。
アルトは、ぎゅっと目を閉じた。
胸のあたりが、じんと熱くなる。
怖いのは、雷なのか。
それとも、目の前の魔女なのか。
自分でも分からない。
けれど、ひとつだけ確かなことがある。
この大きさは、きっと変わる。
いつか、自分のほうが背が伸びて、
この人を見上げなくなる日が来る。
でも、そのときにも――
雷の夜にしがみついた、この感覚だけは忘れないだろう。
外の嵐は、しばらく続いた。
雷鳴は、少しずつ遠ざかっていく。
雨音も、やがて弱まり、森の輪郭が夜闇の中に戻っていく。
それでも、アルトは腕をほどかなかった。
子どもの身体で、
大人の魔女に縋りついたまま、静かに息をしている。
ルシェルも、逃げなかった。
ただそこに立ち、
いつもより少しだけ不安定な呼吸を繰り返している。
理由は語られない。
何が怖いのかも、説明されない。
ただ、嵐の夜に抱きしめたという事実だけが、
アルトの中に、確かな記憶として刻まれた。
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