第3話 消えない傷
ルシェルの家は、はっきり言って、人が暮らすことを想定していなかった。
床には乾燥途中の薬草が無造作に広げられている。
踏めば、ぱきりと嫌な音が鳴る。
机の上には帳面、瓶、粉末、未完成の術式札。
山のように積み重なり、どれが今使うものなのかは本人にしか分からない。
棚という棚には瓶が詰め込まれ、色も濁りもまちまちだ。
毒と薬の境界線は曖昧で、間違えれば即死するものも混じっているはずだが、当の住人は気にした様子もない。
「……最悪」
少年――アルトを寝台に横たえながら、ルシェルは顔をしかめた。
「人を寝かせる前提で作ってないのよ、この家」
文句を言いながらも、足で籠を蹴り、床の薬草を払い、布を引き寄せる。
最低限の空間を作るために。
動きは雑だ。
けれど、手際だけは異様にいい。
アルトは布の中で小さく身じろぎした。
「動かないで。傷が開く」
即座に飛ぶ声は、命令口調だった。
ルシェルは鍋に水を張り、穀物を放り込み、火にかける。
香りの強い薬草は使わない。
子どもの胃袋には重すぎる。
「……面倒ね」
そう言いながら、粥はすぐに出来上がった。
スプーンで少量すくい、アルトの口元へ運ぶ。
「ほら。噛まなくていい」
拒否権はない。
アルトは戸惑いながらも口を開き、ゆっくりと飲み込んだ。
「……こぼすんじゃないわよ」
視線は厳しい。
だが、スプーンを引くタイミングは的確だった。
食事を終え、包帯を解く。
そこで、ルシェルの指が止まった。
「……まだ、残ってる」
魔獣の爪痕。
毒は抜けている。
命も繋いだ。
それなのに、皮膚の下に紫が沈殿するように残っている。
「……何でよ」
苛立ちを隠そうともせず、舌打ちする。
新しい薬を取り出し、傷口に塗り込む。
術式を組み直し、量を調整し、もう一度。
治る。
だが、消えない。
「……あり得ない」
低く吐き捨てる。
「私の薬よ? 効かないなんてことあるわけない!」
魔女として、それは看過できない事実だった。
アルトはその様子を、布の中からじっと見ていた。
怒られているような気もする。
でも、自分が責められている感じはしなかった。
怖くて、それでも口を開く。
「……ぼく……」
「何」
「……傷、残っても……大丈夫です」
一瞬、空気が止まった。
ルシェルの手が、ぴたりと止まる。
「……そんなの、私だって構わないわよ」
吐き捨てるように言ってから、視線を傷跡へ戻す。
「問題なのはね」
一拍。
「消えるはずの傷が、いつまでも残ってるってこと」
さらに苛立ちを噛み殺すように続ける。
「私の薬が効いてないってことが問題なのよ」
その言葉は、アルトに向けられたものではなかった。
アルトは小さく身をすくめる。
でも、不思議だった。
この人は、自分よりも――
「自分の薬」に腹を立てている。
「……どうして、森に入ったの」
突然、鋭い問いが飛んできた。
アルトはびくりと肩を震わせる。
「ここは人間の子どもが来る場所じゃない」
「分かってたでしょう」
「……えっと……」
言い淀みながら、アルトは正直に答えた。
「ぼく……騎士に、なりたくて」
「剣の練習に……使えそうな木の枝を、探してました」
ルシェルは呆れたように額を押さえた。
「……枝」
「命を賭けてまで探すものじゃないわね」
溜息ひとつ。
「騎士なんて、すぐなれるものじゃないでしょう」
「はい……」
アルトはしゅんとしながらも言う。
「あと……十年くらい、かかります」
「十年?」
ルシェルは首を傾げた。
「そんなの、あっという間じゃない」
アルトは目を瞬いた。
十年。
村で暮らすアルトにとっては、果てしなく長い時間だ。
でも、この魔女は本気でそう言っている。
「……長いです」
小さく反論する。
「そう?」
ルシェルは心底不思議そうだった。
「十年なんて、薬の熟成を待つうちに過ぎるわ」
時間の流れ方が、まるで違う。
アルトは、その差をはっきりと感じた。
「今日はもう寝なさい」
ぶっきらぼうに言い放つ。
「余計なこと考える余裕があるなら、身体を治すことに使いなさい」
そう言って背を向ける。
歩きながら、床に散らばった薬草を無造作に跨ぐ。
瓶を一つ蹴りそうになって、舌打ちする。
「……こんな人間の子どもなんて、拾うつもりなかったのに」
ぽつりと零れた本音。
「厄介ね」
その言葉とは裏腹に、ルシェルは灯りを落とさなかった。
アルトは布の中で、小さく丸くなる。
怖いはずなのに。
魔女の家なのに。
この場所は、森よりも、夜よりも――
少しだけ、冷たくなかった。
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