第2話 森で拾われた少年
森の奥は、静かだった。
風が木々の葉を揺らし、湿った土と苔の匂いが混じって漂っている。
落ち葉を踏めば、わずかに水気を含んだ音が返ってくる。
人の気配はない。
獣の鳴き声すら、遠い。
その森を、一人の女が歩いていた。
黒に近い深緑の外套。
動きやすさだけを考えた簡素な服装。
長い髪は邪魔にならないよう、無造作に束ねられている。
足取りは緩慢で、急ぐ様子はまるでなかった。
けれど、ときおり視線だけが鋭く森をなぞる。
風の向きを確かめるように、瞬きをする。
女――ルシェルは視線を地面へ落とし、ところどころに生える草花を確かめながら進んでいく。
足先に迷いはない。
踏んではいけない場所と、踏んでいい場所を知っている者の歩き方だった。
「……あった」
足を止め、腰を落とす。
岩陰に、白く細い花がひっそりと咲いていた。
星見草。
夜に花を開く薬草で、薬の材料としてはそこそこ使う。
珍しいわけではない。
だが育つ場所を選ぶため、探すとなると面倒な類の草だ。
日当たりと湿り気。
その両方の機嫌を取らないと、顔を出さない気難しい植物。
ルシェルは根を傷つけないように、指先で土を払い、数本だけを採取した。
摘むというより、「借りる」ような手つきだった。
「……これでいいか」
独り言は小さく、誰に聞かせるでもない。
本当なら、もう少し奥へ行くつもりだった。
別の薬草も、ついでに見ておきたかった。
――そのとき。
鼻先をかすめる、微かな異臭。
血の匂いだ。
生きたものの温度から少し外れ、冷え始めた血の匂い。
ルシェルは一瞬だけ顔をしかめ、深く溜息をついた。
「……はあ」
面倒なことの前触れは、いつも突然だ。
しかも避けられない。
この森で長く生きてきた経験から、
そういうときに限って、見なかったふりができないのもよく知っていた。
匂いのする方へ足を向ける。
自分でも理由はわからない。
ただ、気づいたときには身体が動いていた。
木々の合間を抜け、少し開けた場所に出たとき――ルシェルはそれを見つけた。
――子ども。
地面に倒れているのは、まだ幼い少年だった。
年の頃は七つほど。
小さな身体は横たわり、衣服は裂け、あちこちが血に染まっている。
血と土が混ざり、鉄錆と湿り気の匂いを立ちのぼらせていた。
その少し先に、魔獣の死骸が転がっていた。
鋭い爪と牙を持つ獣。
小型とはいえ、人の子どもが一人で相手にしていい存在ではない。
口元にはまだ、少年の血が乾ききらずにこびりついている。
「……何で、こんなところに」
当然、返事はない。
少年はぐったりと横たわり、呼吸も浅かった。
胸がかすかに上下するたび、裂けた服の隙間から血が滲む。
ルシェルは、しばらくその場に立ったまま動かなかった。
助ける理由はない。
関わらない理由なら、いくらでもある。
森の奥で人が死ぬことなど、珍しくもない。
迷った旅人も、狩りに来た兵士も、この森は淡々と呑み込む。
魔女が一人ひとり拾い上げる義理はない。
「……面倒くさい」
ぽつりと零れた言葉は、本音だった。
それでも、ルシェルは少年のそばへ膝をつき、首元に指を当てた。
弱いが、確かに脈がある。
命と呼ぶには心許ない。
だが、まだ手を離していいほど遠くはない鼓動だった。
「……生きてるじゃない」
それが決定打になる。
少年の服をめくり、傷口を確かめる。
魔獣の爪による裂傷。
深いが、処置さえすれば助かる――はずだった。
その瞬間、ルシェルの指が止まる。
裂けた皮膚の周囲が、紫がかった色に変わっていた。
血管の筋に沿って、淡い黒紫がじわりと広がっている。
「……」
理由を口にすることはない。
表情も変えず、ただ一度だけ息を吐く。
魔獣の爪に宿る、微かな毒。
人間にはただの「死因」でも、魔女には、どこまでなら引き戻せるか――おおよその線が見えてしまう。
外套の内側から小瓶を取り出し、栓を抜いた。
淡い香りが漂う。
薬草の苦味と、砂糖のような甘さが、微かに混じった匂い。
「ちょっと沁みるわよ」
意識のない少年にそう呟いてから、薬を傷口に垂らす。
少年の身体が、微かに震えた。
布を裂いて包帯代わりにし、応急処置を施す。
手つきは慣れていて、迷いがない。
こういうことを、
何度も「やらない」と決めては、結局やってきた者の手つきだった。
処置を終え、ルシェルは少年の顔を見下ろした。
煤で汚れた頬。
幼さの残る輪郭。
閉じられた瞼の奥で、まだ何も知らない目が眠っている。
「……ほんと、どうして森に入ったのよ」
答えは返らない。
このままここに置けば、夜の森で生き延びることはできない。
魔獣の気配は消えても、闇と冷えは容赦なく子どもの体温を奪う。
ルシェルは深く溜息をついた。
「……最悪」
そう言いながらも、少年を抱え上げる。
驚くほど軽かった。
骨ばった肩と背中が、腕の中で頼りなく沈む。
「軽いわね。ちゃんと食べてなかったのかしら」
ぼやきながら、森のさらに奥へ足を向ける。
人の来ない方向。
地図の上では何も書かれない、空白の緑。
そこに、彼女の住処があった。
人間が「魔女の家」と呼ぶ場所だ。
*
――温かい。
それが、アルトが最初に感じたことだった。
冷たさではなく、温度。
固い土でも、湿った苔でもない。
柔らかい布の感触。
次いで、鼻をくすぐる苦い匂い。
草と土と、少しだけ甘さの混じった匂い。
煮詰めた薬草と、乾いた木の香りが入り混じっている。
「……?」
ゆっくりと瞼を持ち上げる。
見知らぬ天井。
木で組まれた梁。
梁からは、束ねられた乾燥薬草がいくつも吊るされていた。
壁際には棚があり、大小さまざまな瓶が並んでいる。
澄んだ液体、濁った液体。
何も入っていないはずなのに、底だけが淡く光って見える瓶。
どこかの家――だが、知っている家ではない。
村の粗末な小屋とも違う。
どこか落ち着いた静けさがあった。
身体を起こそうとして、鋭い痛みが走る。
「っ……!」
「動かない」
即座に、声が降ってくる。
「傷が開くから」
反射的に、そちらへ視線を向けた。
女が、いた。
年のわからない顔立ち。
落ち着いた目つき。
人の形をしているのに、どこか現実感が薄い。
焚き火の煙の向こう側にいるみたいに、輪郭ははっきりしているのに掴みどころがない。
そして――。
黒い髪と、黒い瞳。
それを認識した瞬間、アルトの思考は完全に止まった。
黒。
この国で、その色を持つ存在はひとつしかない。
物語の中でしか聞いたことのない、
森に棲む、災厄の名。
――魔女だ。
背中を冷たいものが走り、息が詰まる。
喉がひくりと鳴った。
黒い髪を見たら、目を合わせるな。
黒い瞳に見つめられたら、声を出すな。
森へは決して一人で入るな。
父も、村の大人たちも、兵士崩れの老人も、みな同じように言っていた。
――そう教えられてきた。
アルトは反射的に視線を伏せ、身体を強張らせた。
震えが止まらない。
「……その反応、分かりやすいわね」
女――ルシェルは、肩をすくめただけだった。
「安心しなさい。今さら食べたりしないから」
淡々とした声。
脅すでもなく、優しくするでもなく、ただ事実だけを並べる声音。
魔女が人を惑わす存在だと信じてきたアルトには、あまりにも予想外だった。
恐る恐る、アルトは口を開く。
「……ぼ、ぼく……」
声が、掠れる。
「生きてるわよ。ちゃんと」
即答だった。
「ここは……」
「私の家」
簡潔な返事。
それ以上の説明はない。
説明する必要を感じていない者の言い方だった。
森で魔獣に襲われ、
そして――魔女に拾われた。
頭が追いつかず、胸の奥がざわつく。
「……な、名前……」
震える声で、問いかける。
ルシェルは一瞬だけアルトを見下ろし、
どうでもよさそうに答えた。
「ルシェル」
「……アルト……です」
「そう。アルト」
それだけだった。
災厄の魔女。
人の敵。
決して関わってはならない存在。
――そのはずなのに。
アルトは布団の中で小さく震えながら、
自分がまだ生きているという事実だけを、
どうしても否定できずにいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます