従属の呪いをかけられた騎士団長が一途に魔女を愛する話
蜂蜜あやね
第1話 災厄と呼ばれた魔女
むかしむかし、この国には、災厄の魔女がいた――。
アストリアの子どもたちは、誰もがその言葉を、一度は聞かされて育つ。
夜、なかなか眠らない子を大人しくさせるために。
森へ入ろうとする、悪戯ざかりの足を止めるために。
市場の片隅や、店先で、女たちが井戸端会議をする合間にも。
語り手が変わっても、筋書きはほとんど変わらない。
――魔女は、森の奥に棲む。
――人の姿をしているが、人ではない。
――齢を取らず、気まぐれで、機嫌を損ねれば空すら裂く。
ある年、魔女は怒ったのだという。
人の世界のざわめきに、うんざりし。
尽きることのない祈りや願いを、煩わしく思い。
とうとう、天に手を伸ばした。
その指先ひとつで、空は裂けた。
雲は黒く渦を巻き、
昼も夜も区別のつかない雨が、何日も降り続いた。
川は溢れ、大地は呑み込まれ、
家も、畑も、人も、
すべてが水底に沈んだ――。
それが、災厄の魔女の話だ。
子どもたちは息をひそめ、目を見開く。
大人たちは、声を落として、こう念を押す。
――だから、魔女には近づくな。
魔女は、災いそのもの。
魔女は、人の敵。
魔女は、決して関わってはならないもの。
そう教えられる。
魔女は、魔法を操る。
奇術を用いる。
怪しげな薬を調合する。
人の及ばぬ知識を持ち、
人の知らない世界の道理を知っている。
その存在のすべてが、
人間にとって「脅威」とされる。
*
だが、本当のことを知る者は、少ない。
あの年、大地を覆っていたのは、水ではなかった。
ひび割れていたのは土で、
芽吹かなかったのは種で、
痩せ細っていたのは家畜で、
井戸は、底を晒していた。
乾きだった。
祈りも、供物も、空には届かなかった。
どれほど神に縋っても、雲はひとかけらも現れない。
人々は空を仰ぎながら、
声もなく、滅びを待つしかなかった。
――そこに現れたのが、魔女だった。
森の奥から姿を現した彼女は、
誰にも祈られてはいなかった。
誰からも、願われてはいなかった。
ただ、ひどく渇いた大地を見て、
ほんの少し、眉をひそめただけ。
そして、天に手を伸ばした。
指先で空をなぞるように、静かに。
雲が集まり、
風が変わり、
最初の一滴が落ちるまで、そう時間はかからなかった。
雨は降った。
最初は細く、
やがて、大地を濡らすほどに。
乾いた土を柔らかくし、
枯れかけた苗に、かろうじて命を戻す程度に。
――それだけの話だ。
それでも、人は恐れた。
もしも、あの雨が止まらなかったら。
もしも、あれが気まぐれだったなら。
知らない力は、
いつも人の想像よりも大きく、
歪んだ形で、恐怖になる。
やがて人々は、語り方を変えた。
魔女が雨を降らせたのではない。
魔女が、洪水を起こしたのだ、と。
人の世界を、大水が押し流したのだ、と。
育てた作物は根こそぎ流され、
命は、魔女の降らせた水によって奪われたのだ、と。
助けられた記憶は、いつの間にか削れていき、
残ったのは、「奪われた」という誤った記録だけ。
そうして、災厄の物語は、
少しずつ形を変えながら、広がっていった。
*
アストリア王国には、
人々が「魔女の森」と呼ぶ場所が、いくつもある。
北方の山裾に広がる、深い森。
西の国境近く、霧の晴れぬ湿地帯。
地図には正式な名が記されているが、
人の口にのぼるとき、その呼び名は決まっている。
――魔女がいるから、近づくな。
だが、その森で本当に魔女を見た者は少ない。
見たと主張する話は、酒場の笑い話に紛れ、
いつの間にか、「友人の知り合いが見たらしい」へと遠ざかる。
それでも、人は怖れる。
見たことがないからこそ、
どれだけでも「悪い話」を付け足せるからだ。
魔女は人ではない。
魔女は老いない。
魔女は、人の理を解さない。
魔女の証は、その姿にも現れる。
黒い髪と、黒い瞳。
この国で、その色を持つのは、魔女だけだと教えられている。
だから人は、森で黒を見かけたら目を逸らす。
それが、生き延びるための知恵だと信じられている。
誰も、本当のことを知らないまま、
「そういうものだ」と決めてしまう。
*
魔女は人間ではない――それは、おおむね正しい。
彼女たちは、人と同じように生まれ、
歩き、食べ、眠る。
だが、老いる速度が違う。
十年、二十年では、
姿かたちは、ほとんど変わらない。
百年を、
「少し長く生きた」程度にしか思わぬ者もいる。
人の感覚からすれば、
それは、ほとんど止まった時間だ。
人と同じ時間を生きないものを、
人は、本能で怖れる。
だから、教えられる。
森の奥へは行くな。
黒い影を見たら、すぐに踵を返せ。
魔女は災いを呼ぶ。
魔女は人を惑わす。
魔女は、国を滅ぼすかもしれない。
――そういうことにしておいた方が、都合がいい。
知らないものを、
知らないままにしておくための、
立派な理由になるからだ。
*
アストリアの騎士たちも、例外ではない。
幼いころから、
森の奥には入るな。
魔女を見たら、引き返せ。
そう教え込まれる。
討て、とまでは言われない。
ただ、関わるな。
近づくな。
惑わされるな。
国王も、将軍たちも、
魔女がどれほどの力を持つのか、
本当のところは知らない。
それでも、
分からないものを野放しにしておくには、
人間という生き物は、あまりにも臆病だった。
だから、森は禁域になる。
地図の上では、ただの緑の塊。
それでも、そこへ足を向ける者は少ない。
そうして、
魔女と人間のあいだには、
言葉にならない線が引かれていった。
*
――それでも、その線を越えてしまう者がいる。
教えられた禁を、
知っているはずの恐怖を、
何かに引かれるようにして、踏み越えてしまう者が。
ある少年も、そのひとりだった。
まだ、
自分が何者になるのかも知らず、
騎士という言葉の重さも知らなかったころ。
彼は森の奥へ迷い込み、
そこで「魔女」と呼ばれる存在に拾われることになる。
世にも恐ろしい、災厄の魔女――
と、人々が語るその手に、
命を救われるのだとも、知らずに。
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