第10話 『静かな日常へ』



 嵐が過ぎ去ったキャンパスには、穏やかな日常が戻っていた。


 あの日から一週間。大学の雰囲気は、少しだけ変わっていた。


「ねえ、聞いた? 経済学部の黒川先輩」

「ああ、警察沙汰になったってやつ? なんか退学になるかもって噂だよ」


 すれ違う学生たちのひそひそ話が、風に乗って聞こえてくる。


 あの日、警察に連行された黒川先輩は、そのまま厳重な取り調べを受けたらしい。


 店長さんが被害届を正式に出したこと。

 そして佐倉美波先輩が「強要」や「恐喝未遂」の証拠を大学側に提出したことで、事態は大学全体を巻き込む騒ぎとなった。


 親が呼び出され示談のために走り回っているとか、地方の実家に連れ戻されたとか、様々な憶測が飛び交っているけれど、一つだけ確かなことがある。


 ――黒川恒一という人間は、もうこの大学に居場所を失ったということだ。


「あ、宮坂……」


 講義棟の廊下で、ばったりと元サークルの男子学生と出くわした。

 あの日、黒川先輩の嘘に加担しようとした人の一人だ。


 彼は気まずそうに目を泳がせ、何か言い訳をしようと口を開きかけた。


「あのさ、俺は……」


 以前の私なら、愛想笑いを浮かべて話を聞いてしまったかもしれない。

 でも、今の私は違う。


 私は彼を一瞥だけして、軽く会釈をし、足を止めることなくその横を通り過ぎた。


 もう、彼らに怯える必要はない。

 彼らは私を傷つける強者なんかじゃなく、誰かの後ろに隠れていないと何もできない、弱い人たちだと知ってしまったから。


 私はカバンに入っていた「退部届」を、サークル棟のポストに投函した。


 紙切れ一枚。けれど、それは私にとって、新しい自分へのパスポートだった。


 ◇


 夕暮れ時。

 私は一人、あの場所へと足を運んだ。


 居酒屋「たちばな」。


 暖簾(のれん)をくぐると、カランコロンと懐かしい音が響く。


「いらっしゃいませ。……おや」


 カウンターの奥でグラスを磨いていた篠原店長が、私を見て目を丸くした。

 開店直後の店内には、まだ他のお客さんはいない。


「宮坂さん。どうされましたか? 忘れ物ですか?」


「いえ、今日は……お礼を言いたくて」


 私は持ってきた菓子折りの紙袋を、カウンターの上に置いた。


「あの時は、本当にありがとうございました。店長さんがいなかったら、私、どうなっていたか……」


 改めて頭を下げる。

 すると、店長は困ったように笑い、首を横に振った。


「頭を上げてください。私は、店として当たり前の対応をしただけです」


「でも……」


「それにね、宮坂さん」


 店長は、磨き上げたグラスを棚に戻しながら、優しい声で言った。


「最後に『警察を呼んでください』と言ったのは、あなた自身です」


「え……」


「恐怖に立ち向かい、理不尽な要求を拒絶した。あなたが自分で、自分を守ったんですよ。……立派でした」


 その言葉が、じわりと胸に染み込んでいく。


 守られただけじゃない。私は、戦ったんだ。

 その事実を認めてもらえたことが、何よりも嬉しかった。


「……ありがとうございます」


 涙が出そうになるのをこらえ、私は顔を上げた。

 店内に漂う出汁のいい香りに、お腹がぐうと鳴る。


 そういえば、あの日は緊張と恐怖で、雑炊の味も半分くらいしか分からなかった。


「店長さん。……一人なんですけど、いいですか?」


「もちろんです」


 店長は、今までで一番の笑顔を見せてくれた。


「とびきりの席をご用意しましょう。お客様」


 通されたのは、カウンターの端の席。

 目の前で店長が料理する姿が見える特等席だ。


 私はメニューを開き、自分の食べたいものを、自分のペースで選ぶ。

 誰に気を使うこともない。誰の機嫌も伺わなくていい。


 運ばれてきた料理からは、温かい湯気が立っていた。

 窓の外には、穏やかな夜の街が広がっている。


 静かだ。

 こんなにも世界は静かで、優しい場所だったんだ。


 私は箸を取り、小さく手を合わせた。


「いただきます」


 一口食べると、優しい味が口いっぱいに広がった。

 それは、私の新しい日常の始まりの味がした。


(完)


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飲み会に一人だけ先に行かされ、20人分のキャンセル料10万円を押し付けられた私。→店長が最強の味方で、嘘を暴かれた先輩たちは警察へ。 品川太朗 @sinagawa

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