第9話 『崩壊』



「クソッ、クソッ! なんでだよ……なんで俺がこんな目に遭わなきゃなんねーんだよ!」


 美波先輩に財布を取り上げられ、逃げ場を完全に塞がれた黒川先輩は、子供のように地団駄を踏んだ。


 その顔は恐怖と怒りで歪み、かつての爽やかな先輩の面影は微塵もない。

 彼は充血した目で、私を睨みつけた。


「お前だ……お前さえいなけりゃよかったんだよ! 陰気な顔して、俺の機嫌も取らねえで!」


「……え?」


「他の女はみんな『先輩すごい』って俺をおだてるのに、お前だけはいつも真面目くさった顔で! 俺の言うことにもヘラヘラ笑わねえし、見ててムカつくんだよ!」


 先輩の口から溢れ出したのは、あまりにも幼稚で、身勝手な本音だった。


「だから困らせてやりたかったんだよ! 泣いて謝って、『先輩助けてください』ってすがりついてくりゃ、少しは可愛げもあったのになあ! 全部お前が悪いんだよ!」


 唾を飛ばして叫ぶ姿を見て、私の中にあった恐怖が、急速に冷めていくのを感じた。


 ――ああ、そんなことだったんだ。


 私が真面目に参加していたことが、時間を守っていたことが、彼にとっては「自分の自尊心を満たさない異物」でしかなかった。


 たったそれだけの理由で、私を罠に嵌め、大金を払わせようとしたのか。


「……可哀想な人」


 私の口から、ふとそんな言葉が漏れた。

 怒りよりも先に、呆れと哀れみが込み上げてきたのだ。


「あぁ!? なんだと!?」


「私のこと、ただのストレス発散の道具としか見てなかったんですね。……そんなだから、誰からも本当には慕われないんですよ」


 私の言葉は、図星だったのだろう。

 黒川先輩が何か言い返そうと口を開いた、その時だった。


『ウゥゥゥゥゥ――ッ!』


 けたたましいサイレンの音が、店の外の通りから聞こえてきた。

 音は急速に近づき、そして店の前で止まる。


 赤色灯の光が、ガラス越しに店内を赤く染めた。


「ひっ……!」


 黒川先輩の喉が引きつる。

 自動ドアが開き、制服姿の警察官が二人、厳しい表情で入ってきた。


「通報があったのはここですか?」


「はい。私です」


 篠原店長が冷静に応対する。

 警察官の姿を見た瞬間、黒川先輩の膝が笑い、その場に崩れ落ちた。


「あ、あぁ……ち、違うんです……お巡りさん、これはただの悪ふざけで……」


 さっきまでの威勢はどこへやら、震える声で命乞いを始める。

 しかし、警察官の目は冷たい。


「悪ふざけかどうかは署で聞きます。店側からは詐欺未遂と恐喝未遂、業務妨害の訴えがあります。……君だね、代表者の黒川というのは」


「いや、俺だけじゃなくて! こいつらも!」


 黒川先輩は、慌てて後ろの取り巻きたちを指差した。

 道連れにしようとしたのだ。


 けれど、かつての仲間たちは、冷ややかな目で彼を見下ろしていた。


「は? 何言ってんすか黒川さん。俺ら止めたじゃないですか」


「そうですよ。黒川さんが無理やりやらせたんじゃないですか」


「全部、黒川さんの指示です」


 全員が、即座に彼を切り捨てた。


 そこにはもう、先輩への敬意も友情もない。

 あるのは、犯罪者に巻き込まれたくないという保身と、どうしようもない人間への軽蔑だけだった。


「う、嘘だろお前ら……!」


「最低……」


 仲の良かった女子学生の一人が、汚いものを見るような目で呟いた。


 それがトドメだった。

 黒川先輩は口をパクパクとさせ、絶望に顔を歪めたまま、言葉を失った。


 彼が築き上げてきた、サークル内での地位、人間関係、プライド。

 すべてが音を立てて崩れ去ったのだ。


「署までご同行願います」


 両脇を警察官に抱えられ、黒川先輩が立ち上がらされる。

 彼は私の方を振り返り、縋るような目を向けた。


「み、宮坂……お前からも言ってくれよ、冗談だったって……なぁ、仲間だろ?」


 まだ、そんなことを言うのか。


 私は彼を真っ直ぐに見つめ、静かに首を横に振った。


「さようなら、先輩」


 それ以外の言葉は、もう必要なかった。


 黒川先輩は情けない泣き声を上げながら、店の外へと連れ出されていく。

 パトカーの後部座席に押し込まれるその姿は、あまりにも小さく、無様だった。


 店内には、重苦しい沈黙と、嵐が去った後のような虚脱感が残った。


 私は大きく、深く、息を吐き出した。

 終わった。

 本当に、終わったんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る