第3話 『守る大人』



 店長室に通された私は、パイプ椅子に座り、膝の上で両手を強く握りしめていた。


 目の前には、受話器を手に取る篠原店長の姿がある。


「宮坂さん。今から黒川氏に電話をかけます。スピーカーモードにしますので、会話の内容を聞いていてください」


「は、はい……」


「辛いかもしれませんが、これが『現実』です。大人がどのように対応するか、その耳で確認してください」


 篠原店長は静かにそう告げると、手元のメモにある番号を押した。


 トゥルル、という呼び出し音が無機質な部屋に響く。

 私の心臓は早鐘を打ち、吐き気すら催しそうだった。


 数コールの後、相手が出た。


『あー、もしもし? なんだよ宮坂、まだなんかあんの?』


 黒川先輩の声だ。

 周囲のガヤガヤした音は相変わらずで、楽しそうな笑い声が混じっている。


 私がここで恐怖に震えている間も、彼らは宴を楽しんでいるのだ。


「お電話代わりました。本日ご予約をいただいておりました、居酒屋『たちばな』店長の篠原と申します」


 店長の声は、氷のように冷たく、それでいて丁寧だった。


『あ? 店長?』


「はい。黒川恒一様の携帯電話でお間違いないでしょうか」


『……そうだけど。何? さっきの女に払わせるって言ったじゃん。俺らもう別の店で盛り上がってんだけど』


 あからさまに不機嫌な声。

 「邪魔をするな」という苛立ちが伝わってくる。私は思わず身をすくめた。


「その件について確認のご連絡です。当店のキャンセル規定に基づき、予約代表者である黒川様に、コース料金二十名分、計十万円の支払い義務が発生しております」


『だーかーら!』


 黒川先輩の声が荒らげられた。


『俺らは客だぞ? そっちに行ってた宮坂が払うっつってんだから、そいつから取れよ。融通利かねえ店だな』


「宮坂様への強要に関しては、当店は関知いたしません。当店が契約を交わしたのは、予約者であるあなたです」


『はあ? たかが学生の飲み会で店長が出てくるとか、暇なの? つーか、しつこいとSNSで悪評流すよ?』


 脅し文句。

 いつもの先輩なら、これで相手が黙ると思っている口調だ。


 けれど、篠原店長は眉一つ動かさなかった。


「左様でございますか。……なお、先ほどからの通話は、すべて録音させていただいております」


『……あ?』


 一瞬、空気が止まった。


「本日の無断キャンセル、および業務妨害、さらに宮坂様への金銭要求の示唆。これらすべての音声データは、然るべき機関へ提出させていただきます」


『お前、脅しかよ』


「いいえ、事務的な手続きの通告です」


 店長は淡々と、事務書類を読み上げるように続けた。


「本日中に黒川様によるお支払いの意思が確認できない場合、警察への被害届の提出、および――貴方が在籍するK大学学生課への照会を行います」


『っ、な……!?』


 大学。


 その単語が出た瞬間、明らかに黒川先輩の声色が揺らいだ。


『ふざけんなよ! たかが飲み会のキャンセルで警察とか大学とか、大げさなんだよ!』


「大げさかどうかを判断するのは、私でも貴方でもありません。社会のルールです」


「クソッ……うぜぇなマジで!」


 ガタン、と何かがぶつかる音がして、舌打ちが聞こえた。


『後でかけ直すわ! 今は取り込み中なんだよ!』


 プツッ、ツーツー。


 捨て台詞とともに、通話は切れた。

 逃げたのだ。あの、いつも自信満々で、私を見下していた黒川先輩が。


「……とりあえず、相手の反応は確認できました」


 篠原店長は受話器を置き、ふぅ、と小さく息を吐いた。

 そして、私の方へ向き直る。


 私はガタガタと震えていた。

 凄い、と思うと同時に、とんでもない事態になってしまったという罪悪感が押し寄せてきたからだ。


「ご、めんなさい……私のせいで、店長さんまであんなこと言われて……お店にも迷惑かけて……」


「宮坂さん」


 店長の声が、先ほどまでの冷徹なものから、ふわりと温かいものに変わった。


「謝るのはやめなさい」


「でも……」


「悪いのは、ルールを破った人間です。時間を守り、店に来て、こうして逃げずに向き合っているあなたが、頭を下げる必要はどこにもない」


 店長の大きな手が、私の前に差し出された。

 そこには、湯気を立てる小さな丼があった。たまご雑炊だ。


「厨房に作らせました。……腹が減っては、戦えませんから」


「え……?」


「あなたは悪くない。それを理解するために、まずは温かいものを食べなさい」


 促されるまま、私はレンゲを手に取った。

 一口、口に運ぶ。


 出汁の優しい味が、冷え切った体に染み渡っていく。


「……ぅ、ぐ……ッ」


 張り詰めていた糸が切れ、涙が溢れ出した。


 恐怖の涙ではない。

 初めて「守られた」という安堵の涙が、止まらなくなっていた。


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