第2話 『仕組まれた罠』



「お客様、失礼いたします」


 声をかけてきたのは、白髪交じりの髪をオールバックに撫でつけた、理知的な雰囲気の男性だった。


 黒いベストに身を包み、胸元には『店長:篠原(しのはら)』というネームプレートが光っている。


 店長。


 その肩書きを見た瞬間、私の全身から血の気が引いた。


「あ……あの、すみません、私……」


 言葉がうまく出てこない。


 怒られる。警察を呼ばれる。十万円を払えと詰め寄られる。

 恐怖で視界が歪む。


 私は震える手でスマホを隠すように握りしめ、ただ頭を下げることしかできなかった。


「すみません、本当にすみません……! みんなどうしても来られないって……私が、私が払わないといけないんですよね……?」


 涙声で訴える私を、篠原店長は無言で見下ろしていた。

 その視線は冷ややかにも見え、私はさらに縮こまる。


 周囲の客席からの視線が針のように刺さる。

 公開処刑されている気分だった。


「――少し、落ち着いてください」


 頭上から降ってきたのは、予想に反して、低く落ち着いた声だった。


 怒鳴り声でも、威圧的な命令でもない。

 水を打ったように静かなトーン。


「え……?」


「詳しく事情をお聞かせ願えますか。……お連れ様は、なんと?」


 篠原店長は膝を折り、椅子に座る私と目線の高さを合わせてくれた。

 その瞳は鋭いが、決して暴力的ではない理性が宿っている。


 私はポツリポツリと、先ほどの電話の内容を話した。


 黒川先輩たちが別の店に行っていること。

 もう戻ってこないこと。

 そして、私がキャンセル料十万円を払うように言われたこと。


 話し終える頃には、情けなさと悔しさで涙がこぼれていた。


「そうですか」


 すべてを聞き終えた篠原店長は、持っていたバインダーを開いた。


「本日のご予約、十九時から二十名様。『K大学サークルK』代表、黒川恒一様。……間違いありませんね?」


「は、はい」


「では、結論を申し上げます」


 篠原店長はバインダーを閉じ、パタン、と小気味よい音を立てた。

 そして、真っ直ぐに私の目を見て言い放った。


「宮坂様。あなたが代金を支払う必要は、一切ございません」


「……えっ?」


 予想外の言葉に、私は涙を止めてきょとんとする。


「で、でも、私が責任を取れって言われて……私もサークルのメンバーで……」


「いいえ。これは契約の問題です」


 篠原店長は淡々と続けた。


「当店の予約契約を結んだのは、代表者である黒川氏です。無断キャンセルおよび営業妨害に対する損害賠償請求は、契約者本人に対して行います」


「……」


「たまたま『最初の一人』として店に来ていただけのあなたが、連帯保証人のように債務を負う義務はありません」


 法律や規約のことはよく分からない。

 けれど、店長の言葉には、有無を言わせない説得力があった。


「それに……」


 店長はわずかに目を細め、店内を見渡した。

 用意された二十人分の料理。空席のまま冷めていく鍋。


「これは単なる連絡ミスや、若気の至りによるドタキャンではありませんね」


「どういう、ことですか?」


「あなた一人をここに寄越し、自分たちは別の場所で飲みながら、あなたに高額な支払いを押し付ける。……これは明らかに、あなた個人を標的にした『悪意ある罠』です」


 罠。


 その言葉が、胸に突き刺さる。

 薄々は気づいていた。黒川先輩が私を見る時の、あざけるような目つき。面倒な雑用ばかり押し付けてくる態度。


 あれは指導ではなく、ただのいじめだったのだと、第三者に言われて初めて自覚した。


「ですが、相手は先輩で……もし私が払わないと、あとで何をされるか……」


 恐怖が再燃する。

 大学での居場所がなくなるかもしれない。LINEで何を拡散されるか分からない。


「ご安心ください」


 篠原店長が立ち上がった。

 その背中が、ひどく大きく見えた。


「当店としても、このような悪質な行為を看過するわけにはいきません。これより、店として正式に黒川氏へ連絡を入れます」


「れ、連絡って……電話ですか?」


「ええ。宮坂さん、あなたはそこに座っていてください。……大人がどう落とし前をつけるか、見ていていただければ結構です」


 店長はインカムに手を添え、他のスタッフに短く指示を出した。

 そして、店の奥にある電話機へと向かう。


 その横顔は、先ほどまでの穏やかな接客用のものではなく――

 戦場に向かう指揮官のような冷徹さを帯びていた。


 私は震える手でお冷を一口飲んだ。


 助かるのかもしれない。

 でも、黒川先輩がこのまま黙っているはずがない。


 嵐の前の静けさの中で、店長が受話器を上げる音が聞こえた気がした。


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