第4話 『逆上』
温かい雑炊のおかげで、震えは幾分か収まっていた。
店長室の無機質な空気も、今は少しだけ優しく感じる。
篠原店長は、私が食べ終わるのを静かに見守ってくれていた。
けれど、安らぎは一瞬で破壊された。
『ブブブブブ……ッ!』
机の上に置いていた私のスマートフォンが、不吉な音を立てて震え出したのだ。
画面に表示された文字を見て、私は息を呑んだ。
『黒川恒一』
その四文字を見ただけで、胃の底が冷たくなる。
出たくない。電源を切って逃げ出したい。
私が迷っていると、篠原店長が小さく頷いた。
「出てください。……私がついていますから」
その言葉に背中を押され、私は震える指で通話ボタンをスライドさせた。
「……は、はい」
恐る恐るスマホを耳に当てる。
その瞬間、鼓膜が破れそうなほどの怒声が飛び込んできた。
『てめぇ、ふざけんなよ! 店長にチクっただろ、あぁ!?』
「っ……!」
『店巻き込んで脅しかよ! 俺がどんだけ恥かかされたと思ってんだ! サークルの仲間にまで変な空気流れて、せっかくの飲み会が台無しじゃねえかよ!』
黒川先輩の言葉は、支離滅裂だった。
約束を破ったのは先輩たちだ。
私を置いていったのも、お金を押し付けたのも。
それなのに、なぜ私が怒鳴られているの?
『黙ってねえでなんか言えよ! これだからお前はウザがられんだよ!』
先輩の声は、罵倒へと変わっていく。
『言っとくけどな、お前なんか最初から呼んでねえんだよ。人数合わせのために声かけただけの「数合わせ」なんだよ。わかる? 陰キャでノリ悪いお前なんか、誰も必要としてねえってことだ!』
「…………ッ」
心臓を雑巾絞りにされたような痛みが走る。
薄々は感じていた。私は浮いているんじゃないか、と。
それを、一番認めたくない相手から、一番残酷な形で突きつけられた。
『大学にいられなくしてやるからな。サークル中のグループLINEでお前のこと晒して――』
恐怖で思考が停止する。
謝らなきゃ。謝って、許してもらわなきゃ。
私の唇が、条件反射のように動く。
「ご、め……なさ……」
その時だった。
横からスッと伸びてきた大きな手が、私の手からスマホを取り上げた。
「――っ!?」
篠原店長だ。
彼は悲痛な表情で私を一瞥すると、そのまま自分の耳にスマホを当てた。
電話の向こうでは、相手が変わったことに気づかず、黒川先輩がまだ叫んでいる声が漏れ聞こえる。
『聞いてんのかオイ! 泣いて済むと思ってんじゃねえぞコラ!』
「――女性を泣くまで脅して、それが貴方の言う『サークルの流儀』ですか?」
篠原店長の声は、ドスが効いているわけではないのに――
部屋の空気を凍りつかせるような重みがあった。
『あ? ……あぁ!? また店長かよ! てめぇ、引っ込んでろよ! これはサークルの問題だ!』
「いいえ。私の店で、私の大事なお客様を傷つける行為は、私の問題です」
店長は一歩も引かなかった。
「数合わせ? 必要ない? ……彼女は、あなた方を信じて待ち続けていましたよ。それを踏みにじった上に、言葉の暴力で支配しようとする。恥を知りなさい」
『うっせえ、うっせえ! 説教垂れてんじゃねえぞジジイ!』
黒川先輩は完全に逆上していた。
論理もへったくれもない、ただの駄々っ子のようだ。
『あーもう、ラチが開かねえわ! 電話じゃ話になんねえ!』
「ええ、そうですね。お話になりません」
『今からそっち行くからな! 文句あんなら面と向かって言ってやるよ! 仲間も連れてくからな、覚悟しとけよ!』
ガチャリ、と乱暴に電話が切れた。
篠原店長はゆっくりとスマホを耳から離し、私に返してくれた。
「……来るそうです」
「く、来るって……先輩たちが、ここに?」
再び恐怖が込み上げてくる。
集団で乗り込んでくる。何をされるかわからない。
「大丈夫です」
店長は、乱れたネクタイをキュッと締め直した。
その瞳には、揺るぎない覚悟の光が宿っていた。
「むしろ好都合です。電話越しではなく、衆人環視の中で、彼らの本性を暴き、きっちりと責任を取らせましょう」
店長は立ち上がり、私に言った。
「さあ、行きましょうか。ここからが本番です」
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